2015年7月19日日曜日

今日の想い 863

日本は安保法案を巡って長く塞いでいた腫れ物にでも触るかのような態度を示し、国民皆が感情的になっていて議論の余地すらないようだ。左傾化してしまったメディアが焚き付けるからだとばかり思っていたが、意外とそれだけでもないらしいことがわかってきた。軍隊だとか兵器だとかのみならず、戦争を連想させる言葉は悉く忌み嫌っている。阿部首相が国民の理解を得ているとは言いがたいと吐露しているが、今日本国民が安全保障の議論ができる状態には全くなく、悲観的イメージばかりを膨らませるだけ膨らませて、安保トラウマ、戦争トラウマという病に、正確にいうと安保関連の言葉へのトラウマであり戦争関連の言葉へのトラウマに日本国民全体が侵されている。国民当事者からすればその異常さを正常だと思い込んでいるようだが、他の国からすれば全く理解できない日本人の姿がそこにある。自国を守る為に必要な外的武装、その為の安保教育という内的な武装も必要だが、敢えて構えるかの如くに服を着こなす必要はなく、最初から裸であれば挑発することもないと信じきっている。裸だから今まで平和に暮らしてこれたのだと信じきっている。これを洗脳と言わずに何と言うのだろう。洗脳されて魂を抜き取られている。日本人に備わっていた大和魂を再び取り戻すにはショック療法しかないということなのだろうか。日本は他国を侵略した侵略したと、気が滅入って魂が抜き取られるほどに自国民を苛め抜いてきたが、逆に侵略されて恨を覚えてやっと大和魂として奮い立つのだろうか。今の日本に魂と呼べる精神的支柱は立っていない。飼い殺しに慣れてしまって自分の主体的意志もなく、まわりに合わせて主張する色合いをなくした受動的家畜国民では国の形は定まらない。国の輪郭への認識もない。竹島が占拠されても感知せず、尖閣の周囲を中国船が堂々と旋回しても感知せず、もはや北方領土への関心すらない。これでは御父様が予知されたように、日本が5つに分けられて占領されても不思議ではないのかも知れない。主体的能動的でなければ精神的支柱は立たない。それは私達日本食口に対しても同じことが言える。対象的受動的な信仰観から主体的能動的信仰観に脱皮しなければ裸のままで、いつ何時食われてもおかしくない。

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