2015年7月4日土曜日
今日の想い 860
連邦最高裁は同性婚を認めてしまった。これによってまだ認めていなかった13州も認めざるを得なくなった。共に歩む兄弟は当然の如く判決への批判に泡を飛ばす。み言葉では同性愛を認めていないので批判を口にするのは当たり前のことだが、批判を口にするだけで彼らが救われる訳ではない。彼らが救いの圏外にあるなら批判という一方通行でいいのかも知れないが、彼らとて私達と同じように救われて祝福を受ける人類に含まれているなら、批判を口にするだけでは天の願いに応えていることにはならない。一つには彼らが好きで同性愛者となっているのかというとそうではなく、生まれながらにしてそうなっていたという場合が多い。生まれながらにということは宿命である可能性が大きいということだ。私が男であることが宿命であるように、男であるのに男に惹かれてしまい、女であるのに女に惹かれてしまうように生まれついたことも宿命とは言えないだろうか。だからと言って同性婚を認めている訳ではないが、ただの批判に終始する限りはみ旨の願いに応えているとは言えない。御父様が少し触れられたのは、血筋の過去の近親相姦が原因となって同性愛者が出てくると言われたことがある。その蕩減原則がどのように働いてのことなのか定かではないが、父と娘、母と息子という関係性には既に縦的一体圏にありながらも、敢えてそれを分離させて陽と陰という横的相対圏に無理して立たせるという暴挙は創造原理への挑戦であり、それが同性愛という血統の崩壊という創造破壊を誘発させるものとなって子孫に表れるのではないかと仮定できるが、よくはわからない。本来反発しあう陽と陽、陰と陰の性であるのに求めるのは不自然であり異様であるが、特筆すべきは彼らが知的である場合実に知性に溢れ、情的である場合実に情に溢れているということだ。知的な意味でも情的な意味でも補佐役とすれば完璧だ。その気のある従業員がいたが客からの好感度は抜群だった。私を支えてくれて彼女に天使を見る思いがした。御父様は以前、天使には相対がおらずやがては相対として与えなければならないと話されたことがある。天使は霊的存在であり、御父様が神様の相対を地上から用意されたように天使の相対も地上から用意されるのではないかと思ったことがあり、私にはひょっとしたら、、という彼等に対する感覚があって、その感覚は今でも否定できない。それでも同性婚の国の認可は決して認められるものではなく、その感覚をしても天使を認める以前に人間の位相を否定することになりかねない。
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