2015年7月8日水曜日

今日の想い 861(基元節を超えて)

基元節は真の父母様の天一国即位聖婚と私達の天一国入籍祝福が為され、実体的天一国始動として天宙史に刻まれた天歴1月13日を言う。この日に地上天上天一国が開門された。あの基元節は一体何だったのかと未だに不信し疑惑を持つようであれば、その不信と疑惑で今までの歩みを穿った見方で、あるいは現実を穿った見方で判断してしまう。そうなると天一国に仮にも入籍を許されながら、しかしその門から出て離れてしまうという愚行を働いてしまう。もちろん氏族メシヤとして勝利した訳ではないから、門の辺りを出たり入ったりしているような状態で定着地を持つに至ってはいないが、それでも不信と疑惑で踵を返して遠ざかっていくよりはましだろう。この地上のどこに天一国があるのかと、国もないのに開門が聞いて呆れると、しかしみ言葉を正しく受け入れた者は天一国への正しいイメージを持ち、それは御父様の描かれるイメージから来ていて、御父母様との一体圏の核に近づけば近づくほどその実体的天一国イメージは輪郭を明瞭にしていく。現実化はしていなくても地上天国天一国の実体化はされていて、それを否定するならイエス様の霊的勝利圏による霊的御国と変わりないということになる。私達は基元節以降天一国生活、地上天国生活に既に入っている。いまだ堕落性も抜け切れず堕落観念に浸っているから、意識改革の途上であって先天時代と変わらない認識でいるが、認識の程度に拘わらずそれでも御父母様を中心として天国生活をしている。地上では御母様との心情的距離がその認識を深め、地上から見る霊界では御父様との心情的距離が霊的認識を深めていく。認識は後から付いてくるものであって、認識を問うて天国なのかどうかを見るのではなく、私の意識が御父母様の住まわれる天国生活から発せられたものなのかどうかを問わなければならない。先天の地上生活から発せられていた私の意識のままであっては新しい革袋を用意しているとは言えない。御父母様の意識と私の意識がリンクしなければ天国生活を認識できない。私の意識が変わればあらゆる出来事の中に既に堕落世界の側面とは異なる地上天国と関連する側面が見えてくる。自分の目が御父様の目だと思って見る。自分の耳が御父様の耳だと思って聞く。自分の手が御父様の手だと思って触れてみる。自分の思考が御父様の思考だと思って考えてみる。自分の感情が御父様の感情だと思って味わってみる。そうすると見えなかったものが見えてくる。聞こえなかった声が聞こえてくる。御父様が私の体や心を使って生きて働かれる。御父母様と常に共にあればこの地上世界は天国に違いない。






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