2015年7月15日水曜日

今日の想い 862

東の果てにある一人の男性と、西の果てにある一人の女性が、一体となるということは並大抵のことではないだろう。体の凹凸は簡単に埋められて肉体的には一体になれるとしても、内的な凹凸を一つにしようと思えば大変な精神的作業がお互い必要になってくる。それでも忍耐しながら、許して愛しながら、夫婦として添い遂げるとすれば、目には見えない内的凹凸の一体圏、神様から見れば陰陽授受作用の存在様相として、次元を上げた存在として、神様の新たな一つの対象存在になる。神様と私という主体対象関係から、神様と一体夫婦という主体対象関係になる。そうなると神様も私個人の主体と同じ主体ではなく、位相を上げられた神様という主体になられる。一体夫婦の主体として立たれる神様は、天の父母様としての主体だ。一体夫婦にならない限りは天の父母様という概念は個人の中にはない。神様が天の父母様になられれば一なる御方が二なる御方になられるのかというと、一体夫婦で一つであるように天の父母様で一なる存在様相だ。神様が結婚される、という誰も思いもしない驚嘆する概念をどう理解したらいいのかということだが、御父母様一体圏を勝利されて、それゆえに夜の神様から、今日までの人類歴史を通して秘密にしておられた神様の結婚という内容を示されたはずで、或いは既に知っておられたけれども勝利されるまで私達に伝えられなかったはずで、私達が一体夫婦を標榜して氏族圏へと展開するとき、氏族として一体である家庭達の中心は御父様よりは御父母様となる。御父母様の中に天の父母様が認識できる。、、はずだ。よって神様の結婚、天の父母様という概念は、個人から家庭ではなく家庭から氏族という氏族復帰を念頭に置いて成り立つ概念だ。個人の救いの神様は家庭を立てる、家庭の為に犠牲になるという過程で個人を救われるのであり、家庭の救いの天の父母様は氏族を立てる、氏族の為に家庭が犠牲になるという過程で家庭を救われる。

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