2015年8月9日日曜日
今日の想い 870(ホームランド広島、そして真の平和)
被爆国の国民として、広島県民として、原爆の真実を全世界に知らしめる責任がある。それは尊い犠牲を目の前に並べて生き地獄の恐ろしさを伝えて果たせるものでは決してなく、平和の本質的な意味を伝え、真の平和の実現を見てこそ果たせるものだと言えよう。私は敢えて真の平和と言葉にすることによって、蔓延している言い古された平和が不安と恐怖の上に成り立ち、それは多分に人間の弱さ、無力さを根底で是認する唯物主義、人間も他の動物と変わらない動く物だという唯物観から来ているのであり、その偽りの上に成り立っている偽りの平和と敢えて線を引きたい。人間は肉の存在ではなく霊と肉からなる精神存在だという観点に立たない限り、犠牲とただの被害を混同させてしまって尊い犠牲を捧げた者達を総じて被害者で括ってしまう。彼らは被害者ではなく人類の真の平和の為に選ばれた聖なる者達だ。彼らの精神の高み、霊的位相の高さは見上げるばかりだ。私は投下された後の広島の映像を見て、これはゴルゴダの丘だと思わされた。原爆の象徴として残された産業奨励館、原爆ドームはイエス様の茨の冠そのものだった。瞬時の強風にほとんどの鉄筋は薙ぎ倒され瓦解の荒野と化したけれども、産業奨励館から東へと映像を追えばどうしても目に止まるもう一つの建造物がある。鳥居だ。茨の冠を被るイエス様の象徴が先ず目に写り、ユダヤ民族、ユダヤ教と大きく関係する神社の鳥居がその象徴として居残り立っている。瓦礫と累々たる死体の荒野に立つこの二つの建造物は、犠牲を供えた者達の魂の集結だ。長い、気の遠くなるような復帰摂理の歴史に供えられた選民達の犠牲、さらにはキリストであるイエス様の犠牲を始めとするクリスチャン達の犠牲、そうして彼等が果たさなかったことに対する戦争や原爆の犠牲、その夥しい犠牲の全てを一瞬で表現しているのが原爆投下による広島の光景だ。犠牲の地上的表現は血と汗と涙を流すことであり、それは人間の肉心としては避けたいことだけれども、血と汗と涙を流し去ることで勝ち取るものがある。それこそが真の愛だろう。真の愛という言葉を差し出されたのは再臨のメシヤである御父様だが、御父様ですら真の愛の前には跪かれる。真の愛を求めるならば必然的に犠牲を供えることを良しとしなければならないが、流された血の悲惨さを見るのではなく、流されることで真の愛を勝ち取り霊的高みに昇華する経過を見るべきだ。その認識がない限り、真の平和は掴めない。犠牲を供えることで真の愛は立ち、真の愛の地上化が真の平和であって、戦争の悲惨さをどれだけ訴えようとも屍が屍だと認識している限りは平和の本質には近付けない。恐怖政治ではなく恐怖平和だ。
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