2015年8月22日土曜日

暗黒の三日間の終焉?

こうなればこうなると見るのは信仰ではなく見通しだ。信仰は、こうならざるを得ないものを結果的に天の願いであり私の願いに沿うのだからああなると見るのであり、信仰が絶対である必要は、どう見てもこうなってしまうものをああなると言い切ることだ。見通しを180度変えてしまう力が絶対信仰だ。社会の流れを変える力は人間の力ではなく天の力だと思うのは正しいかも知れないが、天の力の行使は人間の信仰に依るものだ。、、と私は思っている。そう思えなければ信仰は、信仰条件は、堕落圏から逃れられないまま希望的観測を夢見て終わる夢想家の道具でしかない。私達は白日に夢を見続けて一生を終える夢想家だろうか。地上天国実現と言いながら心の奥では実現できないことを既に受け入れているのだろうか。心と体の一体化もそうだろうか。氏族復帰もそうだろうか。諦めて余生を静かに過ごすことしか意識にないのだろうか。分派といわれて歩む者達も、分派だとレッテルを貼る者達も、もはや地上天国実現の理想に霊肉一つとなって身も心も注ぎ込むほどの熱い波動を見ることはない。どこかの段階で妥協し、翼を挫いてしまった自分を誤魔化すため無意味な神学論争に意識を遊ばせている。言い負かしたところで天国建設の垂木一本ですら持ち上げたことにはならない。ただの自己満足だ。独善的だ。私達の中に50人ほどの正しい者でもいるだろうか。50人どころか10人だけでもいればその10人のためにソドムを滅ぼさないと神様は約束されたように、私達の中に10人の絶対信仰を立てる者がいるなら、その10人のために天の父母様は地上天国を実現させるはずだ。今こそ私達は絶対信仰に立つべきだ。絶対信仰の意味を悟って、砂地に水を撒くように見える事でも精誠の限りを尽くして前進することだ。小さな一つの一歩でもその一歩に命をかけるべきだ。見通しが立って靡くように立ち上がるのは絶対信仰とは言えない。どう見ても実現しようのない現実の今だからこそ絶対信仰が必要だ。御父様の聖和三周年を数日先に迎えようとしている。霊的視界を漆黒に染められてしまったように天国への行程を見失なっている。天国への見通しが立たない今こそが暗黒の三日と見るべきだ。三日を文字通りの三日と見るのではなく、原理の期間数として見るならこの3周年という期間を三日と見ることができる。御母様は混乱している教会で右往左往している食口に向かって、三年を待ちなさいと語られたようだが、その暗黒の三日を超えて、空を覆うほどの数多の宇宙船に乗った天使天軍が地上に降下する。(このブログを見続けている方にはわかるはずです。2007年2月予知夢参照)子供の頃に霊視したあの光景がまさに今このときに起ころうとしている。時々こんなことを口にするものだから穿った目で見られてしまう。しかしあざ笑う者は笑わせておけばいい。特に食口の多くが一笑に付して流し去るだろうがそれでもかまわない。かまわないけれども、実体的天一国、天国実現への絶対信仰は供えるべきだ。

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