2015年8月15日土曜日

今日の想い 872

これが正論だとぶちまけても、独善的であれば人は受け入れない。私達が社会に少しずつ受け入れられてきたのは、み言葉を押し付けたからではなく、勝共活動や純潔運動など社会が望むものを差し出すことで少しずつ浸透することができた。浸透して初めてみ言葉を語れば注ぎ込まれていく訳で、相手の懐を開かずに、独りよがりに押し付ければ反発を買って終わりだ。私達はこの世的にも十分に苦労してきたはずだ。苦労して、人が生きるためにどれだけ辛酸を舐めているかはそれなりにわかっている。相手の閉ざしている心を開くためには同じ目線に立ち、苦労を共感することで開かれるのであって、上から目線でみ言葉を語っても、押し付けられているとしか思わず心を開くことは無い。上司として部下を指導するのも、その肩書きだけで命令しても受け入れられることはなく、やはり部下との間で共感感情を引き出す必要がある。これが正論だと言い負かしても共感は起こらず、よって一つになる道は閉ざされる。正論で言い負かすのではなく説得して共感を得ることが要求される。ブログはどうしても一方的であって、相手を言い負かすことはできるとしても双方向的にやり取りして共感を得るには至りにくい。反対派にしろ分派にしろ原理をかじった者達の教会ブログが盛んなのは一方的であるというブログ体質に合っているからだ。私達食口は原理という正論が先ずてっぺんにあるので、どうしてもその理屈で相手を押さえ込もうとする。その自覚が無くてもそうなっている。私達にしてみればそれを相手の為だとし愛とまで理解していて当然至極のことなのだが、相手にしてみれば一体何様のつもりかという感情が起こり押し付けようとされているとか裁かれているとしか思えない。原理は万民が理解し共感する原理だと思い込んでいるけれども、私達と同じように受け入れる人の層は実に限られている、ということを先ず認識しなければならない。私達の伝道が行き詰まっているのは、私達が受け入れたと同じように受け入れる人だけを相手にしているからだ。ましてや同じように受け入れた薄い層の食口達でありながらも、一つになっているとは言えないありとあらゆる分派が発生している。ひょっとしたら原理が先ず入り口だと思っていたのは我々だけで、原理を受け入れずとも御父母様を受け入れる層があるやも知れない。そうなると狭い統一村の中だけで言い合っているのは馬鹿馬鹿しく、大海に出て受け入れる層を見出して釣り上げる方が天の願いに適っている。

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