2015年8月3日月曜日

今日の想い 869

真の父だけではなく、真の母だけでもなく、真の父母一体圏を立てるためにどれほどの犠牲が供えられてきたか。そこに思いを馳せなければ、御母様の為されることは御父様の言われたことと異なるとか、御母様の公的言動に疑問を抱かざるを得ないとか、沸き起こる否定的思いに主管され、祝福血統という心情的血筋から自分を切離してしまいかねない。犠牲は御父母様は勿論のこと、背後に累々と積み重ねられてきた人類歴史の全ての犠牲もこの真の父母一体圏を立てるために供えられてきた。真の父母は一体であるという言葉と、あれもおかしい、これもおかしいと思えてしまう内面の問答の言葉のどちらが重みがあるだろうか。一日に何千回何万回と来ては逝く儚い思いの一つ二つを取り上げて、真の父母一体圏に波風を立てようなど恐れ多いと思わないのだろうか。先ずその頭を切り落とすべきだ。現代人の最大の問題は頭が過剰に大きくなってしまい、利己的感情を頭を働かせることで正当化している。論理があって感情があると信じているけれども、本当は逆の様相だ。感情という己の気分を害したくないという執着が堕落人間にはあって、その為にでっかい頭を働かせ論理として組み立てる。そして見事な言い訳を立てて本質的自分を霊的に殺している。本質的な自分、重生した自分は真の父母一体圏なくして存在し得ない。真の父母一体圏に疑問を抱く限りは堕落圏を越える霊的に生きた存在とはなりえない。祝福を既に受けたから私の原罪は問われず重生された新しい私が存在している、という感覚は、自分が地上の歩みを通してなされる様々なる復活体験に支えられているはずで、復活実感がないにもかかわらず、私はあの時祝福を受けたという時間感覚と、理解した原理的解釈にのみ支えられている限りは仮祝福でしかない。説明に言葉を並べようとすればどうしても論理に頼らざるを得ないが、祝福を戴いているという恩恵は肉を超え霊を超え天宙一体圏の恩恵であることは論理で説明できるものではない。み言葉はその言葉が入り口であって、その本質の世界を訪ねなければみ言葉の生命には届かない。真の父母は一体であるという言葉がなければ、私は祝福を受け重生した自分であるという言葉はない。さらに戴いた祝福も数段階にわたり、その段階の復活体験と復活実感がなければ?マークの連続で、真の父母一体圏を否定する者はその域に入っていこうとすらしない。

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