2015年8月25日火曜日

今日の想い 875

救援摂理歴史は6000年ではなく何千万年だという御父様のお話はどう捉えればいいのだろうか。「6000年は嘘で実は何千万年が本当だった」と修正された話ではなく、科学が分析するところの地上時間に拠れば何千万年であって、より内的霊的見地に立って数理期間の意味で歴史を紐解けば6000年の復帰摂理歴史ということになる。6000年は復帰摂理に立った象徴的歴史であり、象徴的を代表的と捉えればわかり易いかも知れない。歴史観は様々な歴史観があるのであり、人生観も幼年期か青年期か壮年期か老年期かによって見方は異なるし、死が見えていない者と明日には死ぬとわかっている者とも異なるし、人生の流れはそれぞれで異なるのと同じで歴史の流れも歴史観によって異なる。正しい歴史観、というものがあるのかということだが、復帰摂理歴史観は神様の見地に立った歴史観であるので正しいというより代表的歴史観であることはわかる。何千万年という歴史はハルハル(一日一日)の積み上げ、すなわち足し算の歴史であり、この地上に足が立った人類始祖から続くそれぞれの跡継ぎが生まれるまでの年齢を積み上げれば何千万年という歴史になる。この何千万年分の数十年という限りなく0(無)に近い自分の存在という観点に立てば、殆ど歴史に対する自分の存在意味は流れを止めなかったということ意外なくなる。私という存在意義は足し算の歴史からではなく、象徴的、或いは代表的な私という見地を見る復帰摂理歴史から私の存在意義は生じている。復帰摂理歴史観に立たなければ死を超えて、死を主管して立てる私ではなく、死の訪れを忌み嫌い、死を恐れながら明日には踏み潰される逃げ回る虫けらでしかない。種付けしたら、あるいは子供を産んだら、ただの粗大ゴミだ。しかし復帰摂理歴史に立つ私とは神様の願いに身を賭した者達の果実であり歴史的結実体だ。復帰摂理歴史観に正しく立てば、私という存在の歴史的使命が見えてくる。生き永らえることが問題ではなく、生きてどう貢献するかが私の人生の主題になる。しかし悉く願いに応えられなかった足跡を見る限り、どう死ねば貢献できるかということに意識を割く必要が出てくる。6000年という代表歴史に何千万年という歴史が集約されているという、とてつもない歴史の重さを表現されたのが最初に記したお父様の表現だ。

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