2015年8月19日水曜日

今日の想い 873

私達は世間から見れば独善的な存在だ。独善的であればあるほど伝道は困難さを増す。しかし信仰に立つということは独善的になりやすい部分を含んでいるとも思われる。オウム真理教というカルト教団があった。カルト呼ばわりするのは社会が受け入れられない特別な信仰に対する悪と見なす判断で、私が同じように彼等をカルトと呼べば社会と同じ位置に立つわけだが、殺人まで犯してしまうとカルトと呼ばれても仕方ないだろう。日本では統一教会も同じ括りでカルト呼ばわりされているが、それは殺人はしないまでも私達の独善的反社会的な一面を見てそう思われている。高額な物品販売も、その手法も、日本社会では受け入れられないものだった。善悪を言っているのではなく客観的判断だ。それは対社会のみならず内部に於いてもそうで、有り金全部献金させるということも、借金までして献金するということも、さらには教主に結婚相手を決めてもらうということまでも、この世にしてみれば受け入れられない特別な信仰だった。未来永劫代々にまでその同じ信仰姿勢を維持し続けるのかと問われれば、ある段階に於ける摂理の願いがあり、信仰条件としてそういう期間が必要だったはずで、期間を過ぎていつまでも同じ行動姿勢を取れば受け入れられることはないだろう。期間を超えれば箍に嵌められた信仰姿勢から箍を外されるとみるべきだ。信仰条件が取られて自由を勝ち取ったとみるべきだ。受動的信仰から自由な能動的信仰を許された。先天の受動的信仰では実績への責任は御父様が肩代わりして、実際問われることもなく、惨敗の結果であっても御父様は実りをもたらさない悪い種だったと判断されて見捨てることはなかった。しかし後天時代は違う。自由な信仰行動を許されることで、確実に実績への責任を問われることになる。先天時代の様に落ちずに付いていればそれでいいという訳にはいかない。世間が受け入れ安い教会の在り方や食口の信仰姿勢を備えることで実績は付いてくるはずだと思えるのは、内的なものが主体であるにもかかわらず、外的なものを変えれば何とかなるという迎合主義に嵌っていく。もちろん外的事柄も大切だけれども、そこから入るのではなく、私達の能動的信仰の確立があってそれからの戦略的話だ。でなければカナンに入ったイスラエル民族のように迎合しながらこの世に染まってしまう。如何に私の能動的信仰を確立するか。後天時代に真の父母と一つとなり願いに応える私になれるかどうかはそこが分水嶺だ。オウム真理教はグルである教主の間違った認識によって宗教団体を殺人集団へと駆り立てた。しかし弟子達の責任は全く無かったかというとそうとも言えない。私達は特殊な宗教に絡んだ過去の事件だと見過ごすのではなく、彼等から学ぶ点がある。彼等はグルの言いなりになった。グルが問題であったのはその通りだけれども、受動一辺倒でものの言えない弟子達にも少なからず責任がある。彼等に内的成長があるなら殺人という手法手段に疑問を抱く良心の啓発もあったはずだが、それが欠けているのであれば人間としてではなくグルを頭とする手足の存在でしかない。もちろん御父母様は彼等のグルとは比べようも無いけれども、御父様が言った言わない、やれやるなの戒めへの教条主義に我々が陥ればオウムの連中と変わりないことになる。教条主義は受動一辺倒の信仰だ。能動的信仰はそれを超えて御父母様の心情を相続するところが起点となる。手法手段は心情を相続した私が決めればそれでいい。私達は彼等のように悪魔が支配する群れにはなり得ないが、先天の受動的信仰に留まれば実体的地上天国の建設は絵に描いた餅でしかないだろう。御母様の前に言葉や態度だけは素直だけれども、それで善しとしてしまったら天国建設の石一つさえ積み上げることは無い。

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