2015年8月20日木曜日

今日の想い 874

天の父母様が私にとっての親であり、私は子供の親だ。私が親として子を想う気持ちがあるように天の父母様も私を想う気持ちがある。親の子に対する想いが子に伝わらない切なさややるせなさ。私は朝目覚めると同時にその想いで身を焦がし始める。その日一日身を焦がしながら魂はぼろぼろになって床に就く。次の日の朝目覚めると、昨日の魂が癒えないままにまた身を焦がし始める。来る日も来る日もそうやって身を焦がしながら、親はどこまでも親であること、子を想う熱に身を焦がし続ける存在であることから逃れられない。親は親の愛ゆえに子に振り回される。子は振り回そうという意志のないままに親を主管する。親の愛ゆえに子を主管する立場に立つためには、子を、親を想う気持ちに目覚めさせる必要があり、そこに至るまで親の安住はない。今日もとろとろと燃え続けるろうそくの火のように、身を焦がしながら子供の面影を追っている。親の愛に反応して喜びをそのまま返してくれていた頃、何の曇りも無い愛の写し鏡のように思えていた頃、そこに釘付けされた面影を追いながら逃れることができない。おそらく私に問題があるのだろう。私が間違っていたんだろう。私の想いは親としての真の愛だと思っていたけれども、それは子に愛されたい親の執着だったのかも知れない。当時はある程度の年齢を超えなければ家庭を持てなかった。同じ年代夫婦が子供の結婚話をする頃に私達は初めて子供が産まれた。親が子を育てるというより祖父母感覚でかわいいかわいいと接してきた。高齢出産がいいとか悪いとかではなく、子供の愛が育つ為には教え諭す厳しさが必要だったのだろう。今の状況に立って始めて、愛した愛は何だったのだろうかと愛が得体の知れないもののように思えてきた。親の愛は男女の愛の真偽入り混じる不可解さと比べて単純なものだと思っていた。親が子を愛するに良い愛も悪い愛もないと思っていた。しかし愛してきたと思い込んでいた愛が、現実として裏目に出るのは偽りの愛だったということなのだろうか。アダムエバの問題を超えた時点で愛の問題の峠は超えたという感覚があった。家庭をもって子供が出来たなら、親として当然の親の愛を子に注ぎ込めば道を外さない子として育つという何の不安もなかった。そこに間違いなど起こるはずもないと思っていた。しかし愛の関門は家庭にもあった。私は子に注ぎ込み、愛の実として育てるほどの親の愛を与えてはいなかった。今になって悔い改めようにも過去の時間を取り戻すことは出来ない。霊界に逝かないまでも、既に地を叩いて悔いている。これから親としての私はどう修正すればいいのだろうか。天の父母様もそんな悔悟を覚えることがあるのだろうか。真の愛の御方であればそれはあり得ないことなのだろうか。

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