2015年8月11日火曜日

今日の想い 871(砕かれた期待感情を超えて)

私達は反社会的だった。親元を飛び出し、会社を辞め、献身という名の自身の供え物を捧げて万物復帰に明け暮れた。何と単純な、何と能天気な行動だったかと思えるけれども、そうせざるを得なかった明白な何かを感じ取っていた。今にしてみれば思い出せない強い期待感情を抱いていて、それに突き動かされていた。行動はもちろん主体的であったけれども、突き動かされた感情は受動的で一方的に受け取ったものだ。そしてその感情は個々人それぞれ別の感情を受け取ったのではなく、一つの感情を全体として受け取り、その同じ感情故にお互いが兄弟姉妹だ、食口だと何の蟠りもなく感じ合え言い合えた。私は6000双だけれども74年には復帰されていて、献金路線に入る直前の、最後の古き良き(?)教会時代を知っている。当時は理想を語り夢を語り、皆が同じ理想、同じ夢に酔いしれていた。移動しながらの万物復帰は既に始まっていたがまだ旅行感覚で、自然を賛美し、また訪ねる人々のうら若き青年への暖かい眼差しに支えられていた。それから奴隷船といわれるF部隊へと厳しい時代に入っていくわけだが、それでも献身に駆り立てた期待感情は地下鉱脈の静かな流れのように息衝いていた。その期待感情は何をもっての期待かというと、最大の期待は子供に対するものだった。罪のない、神性を備えた、心情豊かな祝福二世を期待していた。能力や実力に於いても秀でているはずだと期待していた。私達の信仰と祝福の価値は祝福二世をして、親を始めとする親戚縁者にも、さらに教会に反対する人も含めたこの世の人々にも、見上げるばかりに証されるものだと信じ込んでいた。が現実はというと落胆するものだった。私の描いていた祝福二世へのイメージからはかけ離れていた。それから私の何が間違っていたのかの軌道修正が始まった。それはみ言葉の本質の中の本質、核に接近するものでなければ、自分の本質である内的なもの自体が狂っていると認識しなければならないのであってできるものではなかっただろう。今ですら私の内面は正しいものとなったとは言えない。ある先輩食口の離反が物議を醸している。退会届に記された内容には私も頷けるし、退路を立っての献身の覚悟には死生決断が漲っていて、教会責任者達が彼女以上の覚悟を供えて舵取りをしているのかは甚だ疑問だ。しかし、それでも踏みとどまるべきだ。踏み止まって内部に於いてその覚悟の声を発するべきだった。内部であれば暴露しようが何しようが暴れるだけ暴れても問題はないはずだ。何がどう転んでも御母様のもとを離れるべきではない。退会届にも遠慮勝ちに記されてはいるが、御母様への不信が大きな要因となっている。御母様に対する不信が無ければ直訴すればいいだけの事で離れる必要など全くない。御父母様は一体圏にないから御母様はみ言葉と伝統を覆されたと取るのか、一体圏にあられるからみ言葉と伝統を覆されたように受け取れる事も敢えて為されたのか、私は後者の立場だ。変えるなと言われたみ言葉を覆されたように見える赤表紙や、御父様に対抗するかのような独生女宣言も、それ自体が御母様が願われた最後の目的ではないはずで、天の悲願であり御父様の悲願でもある地上天国実現を為すための布石として、御父様と一体圏にあられる御母様の責任に於いて為されたものだという認識を持っている。御父様を超える反感を買うほどの強い意志がなければ、御父様の地上に居られない状況で、霊界からの御父様の指示待ち指示受けで動くような霊能者感覚で天国が為されるとはとても思えない。敢えてここでも言いたい。天法に一つでも引っ掛かれば天国には行けないが、そこには秘法があって天国を築いた者は天国の住人になる。自分が信じたいものを信じたとして、どれだけ清廉潔白に生きたとして、地上天国が為されなければそれは何の意味を持つのだろうか。自己中心的信仰、良心に思える自己中心的善悪判断に終わったと切って捨てられる。少なくとも御父様の地上に居られる間は実体的地上天国は完成されなかった。実体的な意味でどれだけ進んでいたのかと問うても誰も答えられないだろう。ならば私は御母様にかける以外ない。環境創造という御母様の言葉は天国実現への道を肌で感じる。天国への期待感情に酔いしれていた当時を振り返りながら、懐かしくもそこに留まるのではなく、私達は天国を実現して、少なくとも地上天国実現の道筋を立てて、天国の実体感情を味わわなければこの道にかけた人生が流れ去る。

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