2019年5月8日水曜日

食口にみるお金に対する価値観の貧弱さ

どうしてお金を得たいと思うか。それはお金の中に何らかの価値を見出しているからで、だから得たいと思う。しかしその価値はお金という衣服を着ているだけで、未来永劫同じ衣服を着用している訳ではない。今ベネズエラのハイパーインフレは手に負えない状況だ。すでに年率1000万%を超えるインフレ率だというマスコミもいて国がどうこうできる段階をとっくに超えている。2008年に1000分の1にデノミを敢行し通貨単位の呼称も変えて整理したばかりなのにこの有様だ。年率1000万%と言うと、1だったものが一年経ったら10万払わなければ買えないという状況だ。1なる通貨単位を纏っていた価値が10万なる通貨単位を纏っている訳で、通貨価値がどんどん冷え込んでしまって10万枚も厚着している状態と言えば分かりやすいだろうか。営業しながら日々お金に携わっているとその価値の内的霊的なものが見え始めてくる。売り上げとしてお金をいただいても背後の本質的価値を見なければ遅かれ早かれ流れていく。流れないように手元にしっかり握りしめていても紙幣という抜け殻を残して価値だけは消え失せてしまう。だから常に本質的なものを見ようと努力しなければならないし、そのように関心を持つことそれ自体が愛する意志を差し出したことになる。そうであれば逆も言える訳で、1ドルしか手元になくてもその1ドルに十倍も百倍も関心を持ち本質的な背後の存在に語り掛け愛そうとするとき、その1ドルは1000ドルにも2000ドルにもその価値を呼び寄せ働くようになる。(断っておくが、1ドル紙幣を神棚に上げて百倍になるように祈祷しろと言っているのではない)そう言う対し方、すなわち愛し方を学べばどんどん寄ってくるようになる。お金がお金を呼ぶというのはその内的霊的価値を認識した者が実感する言葉であって、下心のある者のギャンブルや投資に当て嵌まる言葉ではない。お金に対して先天時代の私達の至らなかったことは、その本質的価値を求める姿勢も体質もなかったために、信仰的苦労はしても万物に対する苦労をしていない点が一つとしてあげられる。ただなけなしの小遣いだけもらって歩んだから苦労してきたと言うけれども、それは生活への忍耐という苦労ではあってもお金や万物の本質を問う苦労とは異なっている。借金やローンに追われる訳でもなかったし、私の理想に向かい達成するためのお金を稼ぎたいとも思っていなかったはずだ。資産もなければ負債もなかった、あればそのまま献金して我関知せず、ということはお金への喜びも悲しみも、そして恨みもなかったはずだ。

1 件のコメント:

桜葉 さんのコメント...

はじめまして
初めてこのブログを開きました。
深い世界をお持ちの方だなと感じました。
万物に向き合う、特にお金の意味を問おうとする食口は殆ど会ったことがありません。
ずいぶん長い期間にわたって書いていらっしゃるのに今まで気が付かなかったです。
過去記事も含めて読ませていただきたいと思います。
宜しくお願いいたします。