2019年5月26日日曜日

独善的では見向きもされない

日本人は表面的には信心ぶっているが、ライフスタイルとして都合よく受け入れているだけだ。しかし皮をむけば無神論者で、進化論を国民上げて教育し信じているし、敢えて宗教といわれると非科学的なものとして括ってしまう。宗教イコール新興宗教であり新興宗教イコールいかがわしいものというイメージなのだろう。確かにいかがわしい自分だったしいかがわしい団体だったのはその通りだから日本人の感覚はそれほどおかしくはない。また自分自身も独善的なところは認識できている。先天に於いて私達は独善的自我に留まっていた。親戚からは疎んじられこの世は悪の社会だとして壁を作って独自の価値観で生きてきた。心を開いた交流もないのにどうして原理という異なる言語で氏族と交わり、氏族復帰などと大風呂敷を広げることができるだろうか。原理として理解している表層的なものに囚われず、原理の本質を求めていってこそ氏族復帰、世界復帰の意識に届くのであり、霊界を動かしてこそ氏族を動かせるはずだが、独善的なことと本質は相容れないことがわかっていない。独善的だと認識される宗教のイメージを私達が壊して越えなければ世界復帰どころか氏族復帰も夢のまた夢だ。世界復帰が奇跡的に為されると信じて疑わないが、その認識は愛に立つものではなく謂わば宗教的権威に立つものであってそれは本当のところは誰も望んではいない。親兄弟、親戚に対して俄作りの人格で原理を入れようと思っているけれども、現実は何らかの実績を見せない限り見向きもされないだろう。実績に先ず屈服するのがこの世の倣いであり、そこにそれなりの人格が備わっているのは当然と思われている。私達は愛という言葉を重要視する割にはそのイメージは貧弱で、せいぜい愛の人格であって愛の実績が何であり愛の権威が何なのかを問うことを忘れている。語らずに伝道できてこそ本当の伝道だろう。愛の実績に語らせ愛の権威に語らせてこそ伝道だ。この世の宗教に対するマイナスイメージを壊さなければならないのに、既存の宗教観に留まりさらに独善色を滲ませたままでは、一生懸命活動してもサインしてもらった頁を集めるのが関の山だ。もちろん今願われている事に専念する信仰観を否定するものではないが、私の摂理への貢献は私なりにあって私の良心はそれをも願う。全体摂理と共にそれぞれが担う摂理が必ずあるはずで、そうでなければ私という個は存在してもしなくてもどうでもよく、その認識もなくて個や家庭や氏族の責任を全うできるとは思えない。

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