2019年5月9日木曜日

先ず手を合わせて祈る

意識訓練として一日にひとつは新しい気付きを発見することにしている。そうでもしなければ一日一日が同じ繰り返しで何も残らなくなる。クリニックに送って行って、迎えに行って、朝食を取りニュースを見て、、とルーティンをこなすことだけに意識を向け、そんな感じで気付いてみるとあっけなく一日が終わってしまう。本当は新しい一日は昨日とは全く異なる一日であり、一日の中で多くの気付くべき宝物が用意されているはずなのに、それが見えなければやり過ごしてしまう。今は店を引き渡して営業の業務から解放されたが、矢継ぎ早にありとあらゆる問題が生じてそれに追われて一日を終えていた当時の方が多くの気付きを与えられていた。ある問題が生じて、いくら考えても、いくら悩んでもほとんど何も解決しない。しかしやるべき業務は業務でこなしていかなければならないわけだが、いつものように業務について足を動かし手を動かすことで問題が整理されてきて、内外の解決の糸口を与えられることは何度も経験してきた。感覚としては足を動かすことで意識しなかった内外の情報に気付き、手を動かすことで意識しなかったこうしてみようという意志が芽生えてくる。よって人間の四肢は考える頭よりも本質的な霊的感性と深い関係性にあることがわかる。最近になって祈りも変わり、以前のように両手を床につけて行うのではなく、両掌を胸の前で合わせて祈っている。一つは双合十勝日のみ言葉だったと思うが(おそらく)、左手に先天時代を掴み右手で後天時代を掴んで合わせたと言われたその感覚を相続したい思いと、明らかに両掌を合わせた方が集中できるからだ。右手と左手が意思命令に合わせて共同しなければ物は作れないように、神様の意志を中心として神様の右手であるアベルと左手であるカインが共同して作業しなければ新しい歴史の環境創造は為されない。そのように私の両掌を合わせたその場から私の環境創造が始まると信じている。右足がアベルで左足がカイン、右手がアベルで左手がカイン、歩くときは左足と右手、右足と左手と交互になる意味、手を組んだ時右親指が上になる人と左親指が上になる人との違い、手のひらの指を親指から付け根、先端、付け根、先端と数えられる意味、等々人間の四肢に関するみ言葉はそれが霊界と直接関係があるからされた話で、その意味をひも解くと霊的感性がより明るくなるはずだ。人間の表情を見れば魂の在り様が伺えるが、四肢の在り様、特に手の在り様や動きをよく見れば霊的出生が見えてくる。

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