2019年5月21日火曜日

私に内在される神様

自分が一つのX存在である以上、自分のため、自分の欲望のため、自分の喜びのために生きて当然だろう。それは確かに人間らしいし、その在り様それ自体は悪ではないはずだ。でも私達は、一方で為に生きることが神様の願いだと教えられ、それは時として犠牲を伴うものだったりする。人間らしい生き方と神様が願う生き方が私の中で相反するから矛盾を覚えるし悩んでしまう。でもそれは頭上の彼方の、或いは皮膚輪郭の外側に神様を見出そうとするからそうなってしまう。為に生きて喜ぶ愛の神様を私の中に見て、犠牲をして相手を生かしたい衝動に駆られる犠牲の神様を私の中に見るのであれば、事情は全く違ってくる。私が良心に真摯に向き合えば、私の中におられる神様が私の神様として、ワタシ流の為に生きる指針を差し出し、それに従いながら私の神様が私の中で喜んでおられるのを実感するだろう。神様は私の中で、私と共に、私を通して生きることを望まれる。それこそが良心は親にまさり師にまさり神様にまさると言われた良心革命だ。その気付きを得れば、私はどんな時も一人ではないことを実感するだろう。今まで裁かれたように思い恨みにさえ感じていた数々の事柄に対しても、実は神様ご自身が御自分を裁かれ恨み、それと同時にそれを甘受する意志を差し出し、痛みを未来の子孫達を生かしたい衝動とする犠牲の意志を差し出そうとされておられた。内なる神様が悲嘆に暮れる私から新たな私を意志させて踏み出させていた。それを妨げようとする力は堕落性というサタンの力として確かにあるが、真摯に向き合う良心の力は遠からずサタンの力を凌駕するようになる。「神様、これからも私と共にいて、共に喜怒哀楽を感じ共に意志を差し出しましょう」と心の底から真摯に祈ることができれば、私の中に神様は住まわれて全てを体験され、私は神様の想い(心情)を実感する。そのように、神様を自分の中に見出した人間となるようにひとりふたりと伝えていけば、人類全ての中に神様が内在される地球になる。

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