2019年5月18日土曜日
今日の想い 1037(韓国に向きながら)
何を言われようが、あからさまな嫌気で目をそらされようが、それでもとにかく全てを受け入れることだけに意志を傾けてきた。日本の食口はそうだ。言われようは変わらないどころか、ますますあからさまになっていく。それでも正しいか間違っているかは自分には問わない。自分に問うてみて尋ねてみるという意志は持たなかった。いや持てなかった。その言葉のまま受け止めた。供え物に口なしという奴隷らしき認識は信仰をもってこのかた不文律だった。罪を問われ、蕩減を問われ、清算を問われ続けて今に至っている。たとえ日本の道義にもとるとしてもそれでも願いであらばとそれにこたえてきた。足りない足りないと言われながら善人としての性格を捻じ曲げてでも従ってきた。それでも韓国に行けばあなたたち日本人はどうだと言われ、日本にいれば反日態度をとる国賊のように思われ、であっても日本人としての恩恵を国から受けながら暮らさざるをえない。そんな生活がどうして誇らしく胸を張って笑顔でいれるだろうか。そんな生活がどうして卑屈にならないだろうか。先天時代を超えて蕩減のない時代を生きているのではないのか。日本だけは違うのか。母の国でありながら母としての権威は持てないのだろうか。それは日本の食口の問題なのか。誰でもいい誰か食口のひとりでもそんな疑問を注進し続ける者はいないのだろうか。いつから魂は否定され小さくなる極限にまで収縮してしまったのか。復帰された頃は皆が燃えていた。救国に燃えて日本人としての魂の高揚に精を出した。理想は世界の理想でもあったが国の理想でもあった。日本を愛していた。そんな自分や兄弟が愛おしく誇らしかった。兄弟は本当の肉親より兄であり姉だった。
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