2019年5月8日水曜日

疑うことすらなかった観念をまず壊すこと

私たちは復帰という言葉を知っているし、またよく使う。氏族復帰、人材復帰、蕩減復帰に心情復帰、そして万物復帰。長子権復帰、父母権復帰、王権復帰というものもある。万物復帰をいうと、売り歩いてお金を稼ぐかのような使われ方をしてきたものだから、その本質を求めずにきた。しかし万物という意味も、復帰という意味も、合わせた万物復帰という意味も、霊的に尋ねながらその本質に近づかないと、勘違いしたまま万物復帰せずに地上生を終えてしまう。復帰とはサタン主権下にあるものを再び神側に帰することをいう。しかし私自身が神側に復帰された存在でなければ、私が私を中心として復帰という言葉を使うことは許されない。要するに復帰されない私が私自身を含めて所有観念を抱くことは反復帰だった。私を介したとしてもそれはただ素通りしたに過ぎない。しかしそれは先天時代の認識であって、後天時代は180度異なっている。後天時代は所有観念を抱くことと復帰することとは相通じさせることができる。今は蕩減のない時代であり、罪を犯す以前の状態に霊的に復帰されているからだ。復帰されて位置を取り戻したからこそ、祝福の権限を与えられて誰をも祝福できる。万物復帰もそこに私の意志を介して万物復帰がなせる。為せる立場にあるのに、私達の意識が先天時代の信仰観念から抜け出せないままでは、相も変わらず万物復帰は金を稼ぐことという単純な認識から抜け出せない。新しい時代は神様主権の時代であり、それは真の愛による主管を意味している。では万物主管として真の愛によるその意味は何だろうか。万物にはそれ自体の絶対的価値が存在しているはずで、見て触れる万物は絶対的価値の表現に過ぎないのであって、その形状を手元にしても主管しているとはいえない。しかし万物の内的霊的側面に意識の光を当て続けて絶対的価値に触れたとき、初めて万物の意味も、復帰の概念も理解できるようになる。先天時代、殆どの時間を営業に携わりながら訓練され、学ばされ、それを踏まえて行動してきた内容がある。私にとってはそれこそが宝であり、その本質的把握こそが摂理の牽引に貢献できるものだ。

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