2019年5月19日日曜日
本質への意識を持つ
万物の木の下で一生懸命祈るのであれば、求めることだけに言葉を尽くすのではなく、万物それ自体を祈ってあげて愛してあげることにも言葉を添えてほしい。動物や植物だけではなく、先ずは身近なところから使っている箸や茶碗、仕事で用いるカバンや筆記用具、愛用の時計や眼鏡、枕やはてはスリッパに至るまで、祈ってあげて感謝をささげて愛してあげる意志を供えてほしい。物をモノとして扱う以上、口も閉ざすし感情も抱かない。だからといってその形状自体が生きて語るのではなく、形状を象徴するその物の本質が語り掛けるし抱く感情が伝わってくる。想いを投入されたある人の作品であれば、作品を通してその人の本質が語り掛けるように、すべての万物には必ず背後に(霊の)本質が存在していて、深く尋ねるほどに語り掛けてくる。そんな体験の一つもなければ霊界を語る資格はないだろう。調子に乗って夢解きをしてみたり、見えることを霊的に開かれていると自慢したり、しかしそれは見えているのではなく、訳の分からない霊に支配されて見させられていることを自覚していない。不可思議な体験の殆どは雑霊の仕業だと思った方がいい。見させられるのではなく、自らの意志で見通さなければ霊的事実は寄ってはこない。人間の背後がどれだけ複雑で、雑多な霊が沈滞する闇が深いか。そんな魂をも救って祝福を与える義務が私達にはあるが、人間に比べて万物は基本素直で真っ直ぐであって正しく主管すればその本質と友達になれる。ヘリコプター事故に遭われた御父様が語られたのは、太陽が友達だということ。太陽を同じ位相にある万物とするのは考察する必要があるが、見て認識できる存在であることには変わりなく、その太陽を友達だと言われた背景にはその感情が届いたからであって太陽の霊的本質を同じ位相として認識し感じておられたということだ。私たちが環境創造だとか環境保護だとか大それたことを口にしているけれども、この世の万物への意識や愛や主管に劣るからこそ、彼らを凌駕して正しく万物主管できる位置にはいつまでたっても立てない。
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