有り得ない、起きてはならないことが起こった、との言い方は日本特有の言い方に違いない。世界は何でも起こり得るというスタンスが当然であり、事実何でも起こってきたので、国家統治にはあらゆる仮定を想定して危機管理がなされる。アメリカ社会が銃社会であるのは、各市民の自由の権利を保障するなら権利侵害に抗うという危機管理も自らが請け負うのを保証するためであり、従って銃の保持も当然としてあるという考えからだ。自由と平和が何らかの抵抗武力で守られるのは当然であって、日本に非武装を容認する言論が存在しているのは他国からすれば不思議極まりない。奇しくも危機が身近に迫る中でやっと自衛力戦闘力の見直しが図られる現状があり、国民意識に訴える口火を切られたのが安倍元首相だった。今回の犠牲を決して無にせず日本の意識(特に危機意識)の大転換をもたらすものとなるべきだ。これで目覚めなければ更なる犠牲が供されることになるかも知れない。マスコミは犯人と教会との関連を大きく報じるだろうし、更なる注目と批難が向けられるのは当然甘受しなけれならない。本来は救国に立ち日本の平和ボケ、国難に対する危機意識の欠如を憂い、教会も摂理本来の命を受けて訴える活動にこそ専念すべきを、摂理を無視した上部の要求に応える手段のみがいつのまにか目的化してしまった。本来の使命を全うできないのであれば、何某かの形で関与することになるのだろうが、それが悪鬼として反面教師的に関わってしまうという愚かさを露呈してしまった。名前をすげ変えただけの団体はこの際解散すべきだろう。教会時代は先天が後天に代わった時点で既に終わっている。
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