2022年7月15日金曜日

今日の想い 1163

 赤子は大泣きしながら眠りにつく。どうにもひと騒ぎしないと眠りにつけない。目覚めと眠りの間には深い溝があり、意識と無意識の狭間に横たわる。しかし意識から見ると底知れぬ闇の深みに入っていくのであり、意識の執着が赤子をひと騒ぎさせてしまう。意識は見えない自我のこの世の在り様であって、でも自我の食物は無意識圏である霊界に訪ねなければ補給できない。意識でこの世を経験し、経験による果実を引き換えにあの世で自我の食物を得る。成長し大人になってくると、この深い溝を容易に渡り、そして容易に引き返す。しかし寝苦しくも眠れないことも多々ある。魂を揺るがすほどの経験をその日にするとそうなる。この世に慣れていない赤子のように、魂の度量を超える経験は、重すぎて深い溝の下り上りを背負って超えられない。数日を超えて眠れない日々を費やすこともある。この世の経験が心地よいものとは限らない。家を建てるのに隠れている強固な土台が大切であるように、魂を打たれ強くする切なく悲しい経験、痛くも苦しい経験もまた、自分の霊界という私の家を立派に用意するために大切だ。打たれる時には抗わず自分を苦しみに晒すしかない。この悲しみが友だ、この苦しみが友だと言い聞かせながら晒すしかない。アボジがどれほど日本の食口を苦労させてきたか、御自身がもっとも解っておられたはずだ。それが正しいかどうかが地上の判断だろうけれども、しかし神の判断、天宙的判断、霊界の判断はこの世的に正しいかどうかではなく、創造歴史以来流れて来た神の心情に応えられるのかどうかだろう。しかしだからと言って私達の今までの歩みを正当化すべきではない。私には私の意見がある。アボジに一言の提言もできないほど、日本食口は子女の位置にも立てず卑屈だったのか。別の言葉に言い換えると万物に劣るほど罪が大きかったのか。教会が異常に万物を捧げる要求を始めた時点で、社会の許容を超える問題が起こることは容易に想像できたはずだ。こんなになるとは思わなかった、とは言わせない。どんな底辺の食口であっても解っていたはずだ。結局追及される迫力に押されるまま、その時その時さえ良ければと、誰も本気で摂理への責任、霊的生命への責任を負った者はいなかったと言うことだ。少なくとも現時点に於ける結果はそうだ。子女の位置に立てず、万物に劣るなら、今回の結果は当然だし差ほど痛みも覚えないだろう。これが原理的にどういう意味があるのかと、そんな事しか考えないし心の傷も負わないのだろう。母の国なぞ聞いて呆れる。

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