2022年7月21日木曜日

今日の想い 1165  (村社会日本)

 日本のいじめ社会ここに至れり、という感じだろうか。教会の独善性も確かに度を越えているが、日本の教会叩きも度を越えている。日本がいじめ社会であることは、村八分であることと関係していて、要するに秩序や掟に従わない村人は他の村人全員が申し合わせてのけものにしていく。マスメディアの教会叩きは本来この事件の真実を見ようとする意志を否定してまで、以前から気に入らなかった教会と関係があることにだけ焦点を充てて感情剥き出しにいじめまくっているだけだ。真実が何かは依然無視したままだ。報道はどちらかに肩入れや貶めをすることで報道本来の役目は果たされず、感情のはけ口でしかなくなる。この事件の真実に近づこうとする意志が少しでもあるなら、もっと光を充てるべき事柄はあるはずだ。以前に記したように後ろから打ったはずなのにどうして前の首元に銃痕があったのか、司法解剖の結果はどうだったのか、銃弾は何故公開されないのか、どこからも狙われやすい位置に立たされたのは何故か、等もっと見るべき事柄はたくさんあるのに、犯人と思しき人間の動機背景、それも教会が全て背景にあると断定して報道している。日本に帰国して、やはり日本は変わっていないと溜息をつく次第だ。教会どころか宗教そのものを危険なものとしてレッテルを貼り、恰も無神論、無宗教こそが正しいと言わんばかりの風潮は他国他民族から見て奇異なのだが、奇異を通り越して信教の自由を侵される危険がそこにある。一方では社会が国を挙げて特定の団体をいじめるのは善としながら、その一方でいじめ社会は無くそうという笑えない矛盾がこの国には当たり前のように存在している。

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