2022年7月7日木曜日

今日の想い 1157

 人類にもし堕落事件が起こらなかったら、と考えてみたことがあるだろうか。先ずそんな大仰なことから始めるのではなく、自分のことで言うと、もし妻が一生を左右するような病を患うことなく家庭生活を送れていたら、と考える。そうであれば、その時与えられている聖業に没頭し続けただろうし、自分で主体的に将来的な方向性を立てることはなかったはずだ。献身とは心身共の帰依であり、そこには自分の想いも自分の考えも自分起点の行動もない。現在も続けている献身者がそうであるように、与えられた立場や環境が全てであって、そこから逸脱することは帰依を裏切る、すなわち信仰を捨てることに繋がる。よって献身者には主体性という言葉はない。全てが与えられた受動的なものであり能動的に手にすることはない。私のこれまでを振り返って思うことは、献身するまでの歩みと献身してからと、更には自我を取り戻してからとはそれぞれその景色や色合いが全く異なっていることがわかった。献身するまでは地を這うだけで人生の色合いなぞ感じたこともなかった。しかし信仰を持ち献身してからは、限られた範囲であるけれども翼を与えられて立体的な人生の輪郭が読み取れたし光と影も読み取れた。しかし妻が病に侵され、これからの人生設計を自分が立てる必要性を覚えると、それまで全てを帰依していて備えなかった自我を取り戻し、人生の枷が取り払われ、自由度が増すと同時に立体的輪郭のみならずそこに色合いをも覚えるようになった。それは与えられた翼ではなく、自らが翼を用意しなければ見えない景色があるということだ。おそらく他の食口も、献身状況から何らかの障害を経ることで全帰依から自我を取り戻す過程で、見える景色が異なったという者も多くいると思う。人類の堕落事件を個人的事件から見るのは無理があるとは思うが、おそらく神様は堕落事件を経て、神様自身の在り様はそれまでとは大きく変わったはずだ。もう少し加えると事件後の復帰路程の様々な段階を経て、その段階毎に味わい学んだことで開かれた世界は、今の人類全体の人生観死生観神観に表れている。堕落は神様にとって忌まわしい事件だったかも知れないが、それがあって今の神様がおられる。通過すれば全ては愛であったとアボジが話されるように、堕落事件があり失った愛を復帰する過程を通過すれば、それはまた新たな愛の関係創造であったと神様は言われると思う。

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