2022年7月12日火曜日

今日の想い 1161

 皆自分のやりたいことを先ずやればいいと思う。一人の人間として生まれて来たなら先ず一人の自分として生きること、自分のやりたいことがあるならそこに情熱を注ぎ込めばいい。個人として成長途中でありながらも、枷を嵌めることに汲々として、それが人格完成に向かうとはとても思えない。踏み外さないこと?自分も何もわからないから自分にも子供にも枷を嵌めようと一生懸命だった。独善的でありガチガチの教条主義だった。おそらく食口の大多数はそうだろう。でも枷を嵌められて生きる存在が人間ではない。人間性とは個々の自由が担保されているから出てくる言葉であって、枷を嵌めることを良しとすれば誰かの言葉による奴隷でしかない。人間性から発せられる発展性、創造性は枷に嵌められていれば奪われたままだ。御言葉は何をもって絶対か、その字面でもないしその解釈でもない。御言葉は受け取る側の器が小さいにも関わらず、そのまま受け取ってしまえば独善的であって危険だ。先ず御言葉をあらゆる面から疑うことから出発し、それでも否定できない本質が炙り出され、そしてその本質は大概のところ霊的意味合いに収まる。社会には様々な問題がある。例えば親が子を殺し子が親を殺す。この問題を知ったかぶって原理で解釈し理解したつもりでいる。親の愛、神様の愛がわからずサタン的自己中心がそうさせると、、。単純過ぎないだろうか。そしてそう教えられて本当に解決するだろうか。結局は取り決めで雁字搦めにして更に蓋をして表面的に繕う。しかしそれは実のところ何の解決にもなってはいない。御言葉の本質と共鳴している各個人の本質である良心でしか解決はないはずだ。そして良心が個を直接主管するまでに力を得るには、何代も経ながら難度海を通過しなければならないだろう。私は聖霊体験でこの道に入ったのであって、御言葉で感動した経験はない。しかしアボジの最終結論である良心宣言は身が震えるほどに感動した。そして静かな感動は今の今まで続いている。

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