2023年5月9日火曜日

今日の想い 1241

 地上天国に住まう人々は皆が皆四六時中他の為に生き、犠牲的精神に貫かれた人々だろうか。堕落人間が罪を清算し、真の人間になったなら善人ばかりで悪人はいないのだろうか。善人は徹底して他を思い自分を犠牲にする公的人間となるのだろうか。様々な疑問に向き合うことが認識の第一歩だ。天国生活でよく例えられるのが、宴会のテーブルで自分の口に持っていくには長すぎる箸で、お互い与えあいながら自分の腹も他によって満たされるが、自分の腹のことしか考えない者は満たされない、という話だが、だいたい長箸しか用意されていない時点で随分と意地悪な、とても便利な天国とは思えない設定になっている。箸は相手の口にもっていけるかも知れないけれども、食べ物を自分の口にもっていくのは当然だしそれが箸というものだろう。そして犠牲的な思考や行動を素晴らしいと思えるのは、自己中心的な思考や行動が普通で当然だからこそではないだろうか。人間は本来他の助けを借りずとも自助で生きるようになっている。自己中心を悪のように仕立て上げているが、自己を成り立たせた上での他の為に生きるだと思う。私達の「為に生きる」という観念が極めて稚拙に思える。そんな長箸で例えられるような天国イメージで留めているから何十年たっても伝道はできない。飴を与えることは為に生きることではなく甘やかしているに過ぎない、という場合の方が多い。天国行きの切符は飴の最たるものかも知れないが、天国を築ける力があれば誰かが造った天国に住まう必要はない。よって天国の何処に住むかではなく、天国建造のどの部分を担うのかそしてどの部分を他に依存するのか、という意味で他の為に生きるのであり同時に他に依存している。個人が活きれば全体も活き、全体が活きれば個人も活きるべきであって、一方に偏る個人主義と全体主義がそれぞれを否定しているのとは関係性が異なっている。よって天国の概念は限定的な時間空間モノの世界では成り立たず、どのようにも新たな世界、新たな事物を創造できるし、その固定的ではない創造理想を踏まえて成り立つ概念が天国とはいえないだろうか。犠牲精神は抱えているものを放つことで次元の違うそれ以上の価値ある内容を得るという意味であって、けっして只捨て去るという意味ではないはずだ。親が子の為に犠牲になるのは先ず親子一心同体であって、子の活きる価値を見出すから犠牲をものともしないし、それを犠牲とも思わない。一心同体の最愛の存在を失うとき、失ったことで得られた新たな心情を認識することで、私は別の次元で最愛の存在を迎える。

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