2023年5月23日火曜日

逍遥から本殿に向かって 3.

 教会の常識から言えば荒れ放題の社会であることはわかる。婚前交渉は当然であり高校生で既に経験済みも大方であり、バツ2とか3とか離婚も普通であり、かつては言及することも憚られた同性関係も大っぴらに公開し、そうかと思いきやその逆で一生結婚しないとか交渉を持たない者も多くいて、どちらかと言えば結婚しない方が多いような気がする。要するに性についても一方では荒れ方もマックスなら、その一方で誰一人とも交渉を持たないという両極端な振れ幅になっているのが現実だ。或る決められた年齢層で必ず結婚し、どれほどお互いにいがみ合おうが最後まで添い遂げるという枷が嵌められていた。その時代のパターンを取り敢えず取っ払って、それぞれの自由意志に任せた結果がその振れ幅であり、それをサタン的と言いたい食口の感情は理解できるが、私は絶対に向かう摂理的段階だと踏んでいる。要するに表面的な形に対してサタンが讒訴する時代は既に超えていて、形はそれぞれであったとしても心情に通じる内的経験を重要視する時代に入っている。別の言葉にすれば、今までのように神が願っていると信じる在るべき形にこだわっても、既にその決まりきった在り方で絶対に辿り着くかどうかは疑問符が付くということだ。私達は改めてアボジが語られた絶対について、何の信仰的イメージ、要するに戒めや取り決めという教条的イメージをちゃらにして白紙から問い直す必要がある。問い直すに魂全体で問い直すのであって、決して論理だけで問うのでもなく、好き嫌いや受容できるかできないかの感情だけで判断するのでもなく、体の本能に任せるでも牧会者の言葉を鵜呑みするでもなく、知情意が一体であってこそ神の対象となって絶対の本質に導かれるはずだ。それは同時に霊的本質であるはずだ。

0 件のコメント: