2023年5月20日土曜日

逍遥から本殿に向かって 2.

修練会を何度も招集されながら、あれほどにアボジが教育された生殖器の話や絶対の話であったのに、私達の受け取り方というか触れず語らずのガードが最も強いものだがら、アボジの意向は殆ど地に落ちた格好になってしまった。どうしてかというと教育以前と以後と比べてみて食口間の性に対する認識も意識も何ら変わらず、性に対して同じ様な罪意識を持っているし、触れず語らずの態度も以前と変わりない。絶対という新たな言葉も、お互い生涯を通して貞操を守りぬくという以前からあった概念と同じ扱いをしており、その言葉の真意を殆どの食口は受け取っていない。以前の戒めをより強く言い含められた言葉だとしか思っていない。私はこの絶対という言葉は人類が堕落圏にあるうちは隠されていた、しかし勝利されて既に堕落圏を超えた時代を宣言されたが故に、人類に与える新たな福音として天から差し出された至高の概念を持ち合わせる言葉だと私は思う。旧態依然の戒めという戒めで締め上げる宗教観ならキリスト教で十分なはずだが、教会はそれをさらに強化している。本来、宗教を超えるというのであれば戒めを強めることとは逆のベクトルを取るべきだと思うのだが、今の教会は戒めと縛りで雁字搦めで宗教の忌み嫌われる部分の集大成を見るような思いだ。この世の人達と違って祝福を受け血統圏の異なる私達は神の戒めを守り通せる、という態度の何処に理想と希望を見出したらいいのだろう。人々は私達を、戒めという監獄に囲まれ自由を失った悲しい人たちという目で見ている。それをどんなに原理の論理でまくしたてても、その魂で見せて誇れる内外の歓喜に辿り着いた訳でも垣間見た訳でもなく、なんの説得力もなくただただ憐憫の表情を浮かべられてしまう。そう思うと、左派の連中や反教会の人は私達の影響力を信じているからこそ感情を込めて闘いを挑んでくるわけで、哀れに思われるよりは余程人間としての扱いを受けている。アボジが霊的精魂を費やして絶対という秘中の概念を天から降ろされたにも関わらず、食口誰一人としてその貴重性重要性に気付かないとするなら、本体論の中核である絶対は誰が解き明かすのだろう。

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