2023年5月17日水曜日

逍遥から本殿に向かって 1.

 こういう直接的な内容を記して残そうかどうか随分悩みもしたが、実に下品で不品行で不信仰だと思う食口がいても当然かもしれないが、それでも真理に向き合うために敢えて記すことにした。今回の件も私の良心は私を押し出している。それを否定することはできない。もしたとえ地上天国なるものが完成し、人類のいっさいの罪が清算されたとしても、真昼間に陰部も隠さず闊歩するような社会になることはあり得ないし、人前で堂々と愛し営む社会になることもない。性は夜の神様の管轄だからだ。性に向き合うことは夜の神様に向き合うことになる。アボジの晩年の生殖器教育を受けながら、気恥ずかしく暗い笑みを浮かべるしかない居心地の悪さをアボジは察しされたのか、愛の本質そのものの話をしているのにその態度はなんだと語気を荒げて注意されたのを覚えている。それほどに生殖器は聖であり営みも聖なのだが、営みに情欲が入り込むことでサタンが関与していると暫く信じていた。一方で情欲を抱かない営みなど何の歓びがあるのだろうとも思っていた。多くの一世がそうだと思うが私は妻以外の女性を知らない。原理と御言葉と、そして数限りない修練会で厳しく叩き込まれた信仰教育の結果として、正直な話知りたくない訳ではなく知ることができない。男の無邪気かつ直接的突進的な性として妻では飽き足らず、男の触手は五感で得られるあらゆる媒体へと延びてゆく。多くの場合視覚刺激をまさぐりながらじわりじわりと延びてゆく。普通の男性であれば早急かどうかはそれぞれだとしても、視覚から触覚へと進むのは自然だろう。もちろん妻以外の女性の相手を用意することは先ずない。その代償として自分への慰撫に留める。死への恐怖観念がそうさせて信仰を刷り込まれた自分を超えることはない。実際の相手との交渉は私を奈落の底に落とさせる。その感覚があるのは普通に妻との交わりでも経験することであり、以後のあの脱力感であり性を忌む遺棄感だ。それが負債感と罪悪感で幾倍にも増発されて転げ落ちる奈落の底から這い上がれるとは普通の食口であれば先ず思えないだろう。教会に行かなくても献金はしなくても、それくらいであれば自分なりの理屈や言い訳を立てて、負債や罪悪感を抱かないよう主管することはできても、こと堕落の本命である性についてとなると欲するままに行動してその後の自分をとてもとても主管して立て直すことなどできはしない。しかし、だからこそなのか情欲と性欲は常に自分を強烈に駆り立てる。私はここ数年を通して或る仮説を立てることにした。それは信仰の最大の戒めを戒めに終わらせずに、果敢に立ち向かい性の観を立てることで冒頭あたりで記した夜の神様に出会えるという仮説だ。私としての神様に対する公的命題は様々な摂理的活動に生きてきて既に果たしたと言えるのだろうか。とてもそんな結論は出せないと思える私は今、導かれてこの路程に参じてきた最大の理由が、実は先天の終わりに唐突に話された「昼の神様、夜の神様」の解明ではないだろうかと思っている。

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