2025年3月30日日曜日

今日の想い 1372

借金大国アメリカをトランプはどう立て直すのか。アメリカの負債、既出国債は37兆ドルという天文学的数字だ。マスクのDOGEがどれ程頑張ってもせいぜい5000億ドルくらいの削減にしかならないだろう。そしてバイデンの置き土産として、2025年に償還すべき国債が8兆ドルもあり、それを借換債として新たに発行し、プラス財政赤字が2兆ドルとなると今年10兆ドルの新規国債を発行して買ってもらわなければならない。しかし誰が買ってくれるのか。バイデンがロシアに対して外貨準備を凍結しスイフトという決済システムから排除したものだからドルの信用を一遍に失うことになった。BRICS国家を始めとする国々はいつ我が国も凍結されるか知れないとなって、ウクライナ戦争以降ドル以外の通貨やマテリアルにドル準備からどんどん移している。ここにきて金相場が爆上げしているのは各国の中銀がドルから金に移行しているからだ。そんな状況の中、トランプ関税が発動される。これによって対米貿易はもちろん縮小していく。ドルは更に必要性が失われていく。そしてドル基軸が傾いてドルはとことん安くなる。自国の生産力を上げて輸出を増やしたいのはわかるが、早急に生産能力が上がるはずもなく、それまでにドルが安くなっていくと金融どころかアメリカ経済も成り立たなくなる。金融界に名を馳せるほどの頭脳の持ち主も数人いるからそこは当然理解しているはずで、そうなると敢えてドルを落とし込むドル切り下げという第二のプラザ合意を目論んでの事か、はたまた以前から発言しているようにFRBを切り捨てて財務省直接に通貨発行せさるというトランプドルに切り替えようとしているのか、トランプがどう出るのか様々な憶測が流れている。ドルがその基軸的権威を見限られて新ドルにしろ国が発行する暗号通貨にしろに譲るとなると、世界経済は大混乱に陥るだろう。特にドルに追随している(すなわち米国債をしっかり保持している)日本と日本円はどの国よりも影響を受けるはずだ。日本の国民はどの国よりも日本円という紙幣を信用していて、少々のインフレで金や銀に揺らぐことはなさそうだが、しかしドルの信用がなくなっていくとなると日本円という通貨に対しても絶対信用認識を疑い始めるだろう。2025年、何が起こるかわからない。

今日の想い 1371

 説明の話しぶりや質疑応答からして、どうも教会は解散命令請求が地裁で認められるとは思っていなかったというのが伺える。日本が法治国家であることを信じて疑わなかったということだろう。今までの経緯からしても法に訴えてきた様々な結果からしても、法治国家の体を装ってはいるが実態は異なっているのは明白だ。トップですらそうなのに私達がどれほど社会に疎いか、という現実をしっかりと凝視する必要がある。私達に賛同して声を上げて下さる方達の私達に対する要望意見として、黙っていずに声をあげて欲しいというのが複数あった。それは組織としておとなしすぎるという意味だとは思うが、実は教会は断固としてそんな横暴は許さないという意志もなければ義憤の感情も見出せないと言いたいのがおそらく本音だと思う。教会が行儀も良く言葉も選んでの説明は信仰観と人格からくるものなのかも知れないが、もっと人間味溢れる感情を吐露して映像を受け取る全国民に訴えかけるべきで、それは幾らか芝居じみていたとしてもそうすべきだったと思う。拉致監禁の実態を言葉だけならべても、普通は誰もその痛みも受け取らなければ悲惨さも受け取らない。言葉を並べるのではなく言葉を通して心に届く感情や想いを訴えるべきだろう。トップの立場でそれができないのなら誰かサブを立ててでもすべきだろう。私達が日本を想い、生命をかけて日本救済摂理に邁進してきたのであれば、国民の琴線に触れる一言だに出ても良さそうなものなのに、あれほど全国民が注視する場面で行儀よくておとなしいのは、結局それだけの歩みでしかなかった、日本国を想う愛に欠けていたと言われてもどうしようもない。独善的な信仰に走ってしまったことや道義的責任を問われる活動をしてしまったことも確かに悔やまれるけれども、それ以上に献金や伝道の数合わせに疲れ果てたのか、私達の中にいつのまにか摂理とみ旨に熱く燃える魂を失ってしまったことは何よりも悔やまれる。

2025年3月25日火曜日

今日の想い 1370

 東京地裁において解散命令が下された。日本は信教の自由もなければ三権分立も建前に過ぎない、ということがこれで再確認された。これから高裁への不服申し立て、最高裁への抗告と案件は移っていくのだろうが、最高裁が別の案件で民法上の不法行為も解散命令要件にあたると明言しているので抗告してもほぼ無駄だろう。解散は現実となった。これから随時教会施設も処分されていき、事実上活動拠点も奪われ宗教行事すらできなくなる。聖フランシスコのブラザーサンシスタームーンに倣って、野山で祈り海辺で祈り、信仰を維持することになる。施設がなくなっても信仰を維持するとなると、本当の意味で親離れし、主体的で能動的な信仰姿勢を自らで育まなければならない。日本食口の成長はここからであって、解散という破壊だが、死が新たな生であるように解散という破壊も新たな位相を上げての新生信仰となる。あれほど汗を流して議員先生に尽くして来たにもかかわらず、物の見事に裏切られてしまったその現実が意味することは、私達はただの使い捨てでしかなかったということだ。先天の信仰で世間の人々が屈服するはずがないのは明白であり、そうなると人々の光であり羅針盤でありうる本物の信仰を立てろというのが、神の願いであり私達の摂理的方向性だ。私自身は献身生活を通して教会に身も心も捧げてきた以上、切なくも寂しい想いは勿論あるが、解散の声を受け止めて、もはや死にかけている体に未練を残すことなく新たな出発として旅発つことができる。地に這いつくばってきた成約の勇士は死を超えて大空に羽ばたいていく。今日の日は日本食口の魂の聖和式だ。

2025年3月21日金曜日

今日の想い 1369

 どれほど論理を組み立てても、どれほど議論を尽くしても、それだけで実体の果実として実ることはないだろう。必ずそれに沿った行動や実体験が必要であって、いざ行動してみると論理思考だけでは想像だにしなかった多くの課題に突き当たり、その都度感情の試練や意志の投入、一旦引いての論理の組み換えやらと実体化には知情意の魂の投入が必要になる。そんなことは周知の事実でありながらも足が地に着いていない食口はそれを理解していない。だから原理坊やと揶揄されお花畑信仰と嘲笑される。私達の歩みで反省すべき問題の一つは、目標達成という果実を得る為の行動だと言いながら、実態は条件としての行動であって本来の目標達成にはならない。すなわち目標を得る為の行動から信仰基台という条件の為の行動にすり替えているということだ。今までの願われた目標の殆どが実らなかったのは、一般の目からすれば頓珍漢な条件的行動で終始するものだから実らないのは当然だ。今回の解散命令請求が出され、長い沈黙の末にやっと重い腰を上げたかと思うと、その行動はデモ行進だという。この期に及んでデモ行進が請求差し止めにどう役目を果たすのか、私は理解できない。私はというと、首を洗って解散要求を先ず受け入れる派だからどうだっていいのだが、教会支持派がこんな頓珍漢な行動に出るのはやはり条件の為の行動という、すなわち条件を捧げて神の援助や断罪を待つという天にすがる意識からの行動に過ぎない。だからこんな、請求差し止めとは直接関係のない指示が出たりする。今は旧約時代に歩む選民ではないから、神が剣で制裁するような直接的奇跡は起こらない。でも相も変わらず選民思考が強いのか、神は我々の味方だから何か起こると信じ切っている。食口は先天時代の幼い信仰からどうしたら抜け出せるのだろうか。言えば私達の復帰路程も同じであって、どれほど原理で論理立てみ言葉で武装するにしても、現実世界では献金だ会員数だと条件物のみに終始していて、内的試練を超えて内的霊的成長をみることはない。ノルマの条件さえ供えればエレベーター式に復帰されるなどありえないし、勝利された心情圏を相続できることもない。

2025年3月19日水曜日

今日の想い 1368

 日本はたとえ最高裁であっても、法順守ではなく世間の向かうところに顔を向ける風見鶏であり、司法だって村社会の空気には従わざるを得ない。私は早々に解散請求を通すと見ている。アメリカから信仰信条の自由の圧力で責められても、のらりくらり訳の分からない言い訳と責任のなすりつけでかわしながら結局翻すことはないだろう。日本は法支配国家ではなく、それはただの建前であって、国の柱は立てず強者におもねって右に左になびくだけの浮き草国家だ。それはいくつものプレート上で、それぞれのせめぎ合いに任せて列島の命運が決まるという浮き草国土の状態そのままだ。アメリカが超大国であったときはアメリカの州以上に忠誠を立てる風を装い、しかし中国が台頭してくると浮気妻のように中国になびいていく。あちこちに顔を向けて定まらない状態が続けば、日本そのものが四つにも五つにも分断されてしまうだろう。浮き草国家故の八方美人国家のなれの果てだ。悲しくもアボジの日本分割の予言は日本の実態を突いている。教会はその使命をやっと終えることになる。解散だ。本来教会ではなく祝福家庭の組合である家庭連合を出発すべきだった。しかし名前だけは新しくしながらも教会と全く同じ宗教組織となった。アボジの言う家庭連合は宗教組織ではない。家庭連合という建前ながら本音は献金目当ての教会続投でしかなかった。私達ですら結局日本の悪癖を脱げず、位相を上げることができず、情けないが外圧でしか変われない本性が現れてしまったということだ。

2025年3月18日火曜日

今日の想い 1367

 ここまで規制規制で雁字搦めになると、議会は言葉の遣り取りのみに終始し、政府は思い切った政策を立てられないどころか、規制に振り回され利権を失う恐れで仕事をする官僚達を主管できない。トランプ政権がおかしいものはおかしいとコモンセンスで大統領令をだし施政しているのに対し、日本は誰が首相になろうとも、普通におかしいだろうと国民が声を上げていることさえ何も変えられない。すでに議会民主主義の限界にきている。今の米騒動は氷山の一角であって、値が上がるのみならず米不足になるし、他の食糧も同じ道を辿るだろう。2013年の震災以降、日本は輸入額が輸出額を超えてその差は年を追う毎に開いている。かつては輸出大国で外貨をどの国よりも稼いでいた日本は今、貯めてきた国家財産を崩しながら生活している。円安なのは日銀の金利対策が問題なのではなく金利調整できないほどに国のキャッシュフローが切羽詰まってきたからだ。歳入と歳出の差が大きすぎる。MMC信奉者達は円をいくらでも印刷して宛がえば問題ないと未だに言い張るが、刷れば刷るほどに価値は薄くなる。ここまで薄くなった結果がエネ資源や食資源を高インフレにする過剰な円安だ。日本自体に日本を癒し健全な国家にする治癒力があるかどうか。トランプがカナダの生きる道はアメリカの州になることだと言ったようだが、日本こそ当て嵌まるだろう。すでに金融経済は破綻している。爆上げしてきたマーケットは年度内にフリーフォールを経験するはずだ。ロシアの外貨を凍結しスイフトから締め出した時点でドルの信用はなくなり、ドルの基軸も既に名ばかりとなっている。ドル通貨と逆相関であるgoldの国の積み上げや金価格の爆上げもそれを表している。トランプは意気揚々と政策を打ち上げているが、マーケットのダダ下がりと経済の不景気が襲う時どう国民を納得させることができるだろうか。フォートノックスのgoldも地方連銀のgoldもほぼ無しとみていいだろう。あれば早々に監査を受けている。

今日の想い 1366

父と母は闘っている。一致点、一体圏を模索するために闘っている。食口の誰もがどうしてこんな状態になったのだろうと頭を抱えているが、神が存在する以上成長し一体化するための闘いは繰り広げられる。ある位相に於いての一体圏は確かに勝利されている。それを最終一体と理解することもできる。しかし次なる位相に於いての一体化の為の両者分かれての闘いは必要不可欠だろうし、神と同等でありそれ以上の位相はないというなら既に人間の域を超えていて人間であることの必要性はなくなる。この父母の新たな正分合の働きが無ければ今の世界の問題、人類の問題は解決しないはずだ。今の原理と与えられたみ言葉では解決されない様々な問題があって、宿題は夜の神様の時代に委ねられた。故に新しい時代の幕開けとなった今、父母は新たなステージで闘っておられる。私があれほどに苦悶した家庭の問題は私のみ言葉理解で解決はしなかった。ひたすら祈願するしか方策はない問題に対して、清平摂理は進められ多くの食口達に外的救いはもたらしたが、しかしそれでも解決されない問題もある。私達は地上天国を実に単純にイメージしていた。夢想された、、といえば憤慨されるかも知れないが、その単純な天国イメージがお花畑信仰に繋がっている。父母の一体圏が絵本に見るような仲良しこよしではないことは頷けるとしても、母が父を否定する状況は一体圏とは真反対の状況にしか思えないだろう。しかし私達の単純で粗末な地上天国イメージを認識しているように、一体となられたというイメージもまた単純で粗末なものだ。これまで複雑極まりない歴史が流れてきたということは、これからの復帰路程も複雑なものになるということになる。復帰はけっして教条主義の剣で振り分けられ、人間を羊と山羊に割り振りできるような単純なものではない。言葉が異なる父と母の一致点をどう捉えるか。食口それぞれが良心に尋ねながら、その父母一体圏を認識できない限り、祝福を戴いた私は父母一体故の新しい霊をそなえているとはいえないだろう。

2025年3月12日水曜日

今日の想い 1365

 責任者達の体たらくで反社のレッテルを外せないなら、個々の食口は立場を変えた方がいい。個々の立場でどれほど説明しようが教会に籍を置く以上寄り付きもされない。教会の人かと問われれば、あの悪名高き教会にいたが辞めましたと言えば生き延びる道はある。そこからが再出発だ。教会があろうがなかろうが信仰は保持できる。そうであっても教会から受け取るものが必要だから自分にとって存続して欲しいのか、それとも世界の救い、国の救いの為には教会が必要だから存続して欲しいのか、それぞれが良心に尋ね考えた方がいい。神の願いは教会という枠に縛られて生きることではないはずなのに、食口達がその枠が必要だと信じて執着するのはなぜだろう。口では信教の自由を叫びながら、内なる声は教条の枠で縛られることを良しとしている。確かに人間は霊的存在で、それぞれ何某かの霊的縛りが本人の意識圏外から働いていて主管されている。私の意識の方向性を決められ、我知らずその道へと誘導される。何らかの枠が人間には必要だという見地に立てば、教会の枠がなくなればサタン的な枠に収まらざるを得ないことへの恐れからだろうか。ここ10年あまりの世界の流れ、それぞれの国の流れを観察しても、意識圏外から働いている霊的圧力はそれほど掘り下げなくとも容易に見えてくる。アベルとカインの闘い、父と母の闘い、父母と子女との闘い、その闘いだけに目を向ければ正反合としか映らないが、一致点を模索する闘いである以上正分合の方が正しい。正しい一致点を国と国民に知らせる為にも解散命令請求に対する闘いはレベルを上げて闘い続けなければならなかった。私達の中に御柱としての神霊が立っているのか不在なのか、明確なのは闘わない者達に神霊は共にない。

今日の想い 1364

 もちろん政治との関係に重点を置かれたインタビューであったことはわかっている。元首相との関係、自民党候補者や他党候補者との関係を問われている訳で、そうなるとそういう話にしかならない。しかし敢えてそういう話に留めようとしているふしが伺えて私としては納得できない。記者がどこまで突っ込もうとしたかはわからないが、悪名高い文春の記者であればもっと掘り下げて関係性の裏にある事情を敢えて白日の下にする勢いが欲しかった。お行儀のよい記事に終始しているのはいただけない。ナントカ商法であるとか献金ノルマや高額献金、本部の反日姿勢など突っ込まれ、道義的責任からして説明に困る内容には触れられたくないだろう。しかしすでにマスメディアによって反社組織として拡散されている以上、さらに世間からも異質者を見る目でしか見られない以上、どんなに綺麗ごとに収めようとしても無理な話であって、敢えて開き直って国を想う故の行き過ぎた行動だったと釈明して許しを請い、その上で為政者よりも誰よりも国を憂い救国の想いを感情の猛るほどに伝えるべきだ。責任ある立場では無理があるなら、死にかけた一世信者でも言葉足りない二世信者でもいいから口を出せばいいと思うのだが、未だピラミッド組織で活動している以上出る杭として飛び出すことを上も皆も許さないだろう。そうなるとやはり外からの力が必要なわけで、組織が硬化してしまっていて身動きがとれないなら、どれほど理不尽であっても結局解散命令請求は飲まざるをえない方向に向かうだろうし、天の願いの流れからしてもそうなってしまうということだろう。ひょっとしたら教会トップも防御一辺倒だった立場から戦闘モードに入ったのかと教会の目覚めと復活の期待もしたが、全く的外れだった。

今日の想い 1363

文春にUPF会長のインタビュー記事が載った。一読して、彼も二世食口にありがちの優しさや人の好さが全面に出ていて戦いには不向きだなと、失礼にもほどがあるが読後の第一印象としてそんな感想を覚えた。記者も最後に記しているように、怒りよりなにより残念だと本人は述べている。残念、、? 残念っていったい何だ。おそらく政治家が良く使う表現として遺憾というのがあるがそれと同じなのだろうか。そうなると当たり障りのない言葉を述べただけであって、何もせずに受け入れるということだろう。教会長ではないにしても、全日本食口の代表位置にある者が二年の間を置いてインタビューに応える決意が「残念」を表明することだったのだろうか。全日本食口の誇りと人格を蔑ろにされた事件と経緯によって魂の死を宣告されたにも拘わらず、聞かれたままを受け応えるばかりで訴えることの何一つないインタビューは、少なくとも私は愕然とした。義憤の怒りをチラつかせる言葉のひとつでも聞きたかった。結局何もなく期待を込めて差し出した価格1200円が恨めしかった。弁当の一つでも買って腹を満たしたほうが良かった。統一の信仰はいつから闘わないことを是としたのだろうか。アベルカインも夫婦関係も、もちろん心と体も、ひとつになることが願いであって、しかし一つになること=闘わないこととはならない。きれいな信仰的言葉を並べて、言われたことや取り決められたことを守り通して、私は何の罪も犯しませんでしたと報告する、それが食口のあるべき姿勢だろうか。そんな人生を神は願って人間を創造したのだろうか。感情を制御できなくてあらぬ方向に飛び火するようだからやめておくけれども、日本食口の中に神の代弁者はいないようだ。統一食口が口を開かずに誰が神の悲しみや怒りを国や世界に叫ぶのだろうか。

2025年3月5日水曜日

今日の想い 1362

 愛といえば人間関係ばかりに向かいがちだが、万物を愛するという意識を敢えて意識的に持たなければ万物主管はできない。生きていれば食べるだろうし、住むだろうし、そして着用する。どれ一つとっても当然のこと万物は関わってくる。動植物には情がいくとしても無機質の万物にどのように情を持って愛するのかと問われるが、愛さなければ何ものであってもその本質と関わることはできないし、それは愛の主管とは程遠い唯物的な関係性でしかない。アボジははっきりと地上の万物ですら天国に連れて行くと語られている。地上のヒエラルキーとしては人間界の下に動物界があり植物界があり、そして鉱物界がある。人間界が堕落して以来もっとも神が接近でき愛せる対象として鉱物界がある。だから鉱物界に関心を持ち愛して主管することはより神に近くなる。俗にいうなら自然の美しさや優しさ、更には尊さやら厳しさから神の一面を垣間見ることはできる。しかしそれらも表面的なものに過ぎなかったと思えるほどに本質は深いものがある。私達は稲妻の現象を自然の陰陽の情交だと教えられたけれども、原理的にそうだと知識として理解するに留まらず、内的霊的に本質を受け取れるほどに相対する情を私の中に育てなければならない。今アメリカを始めとして世界では通貨による信用崩壊と資産の大再配分が行われている。その背後には万物達の主管者達に対する怒りと恨みが結集され、大津波の如くのうねりとなって国に社会に個々人に襲い掛かっている。本質を知らない者達は安全な資産を求め躍起になり、或いは疑心暗鬼となってそれが逆手に取られてバブル資産を失う。万物が本来どれほど叡智に溢れているか、その鋭利な切れ味は静寂と狂気を併せ持っている。地上では万物故の地獄を見るはずだ。堕落した人間ですら愛のある所に集まるように、万物も同じで必ず関心を持ち情をそなえ愛する者に集まってくる。石ころの中にさえ、固く閉ざして語らないが叡智や心情としての本質が備わっている。愛によってすべては創造されたのであれば石ころの一つだってそうであり、愛に相対できる本質を備えている。父母様の子女である食口であるなら万物に対してもこの世と同じような唯物的扱いをして欲しくない。人間堕落の結果として講論に記されているように、被造物は実に切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。固く閉ざして語らない万物のままで放置しておいて、共に天国に連れていけるとは思えないし、万物を愛で主管できない自分自身も天国に行けるとは思えない。