東京地裁において解散命令が下された。日本は信教の自由もなければ三権分立も建前に過ぎない、ということがこれで再確認された。これから高裁への不服申し立て、最高裁への抗告と案件は移っていくのだろうが、最高裁が別の案件で民法上の不法行為も解散命令要件にあたると明言しているので抗告してもほぼ無駄だろう。解散は現実となった。これから随時教会施設も処分されていき、事実上活動拠点も奪われ宗教行事すらできなくなる。聖フランシスコのブラザーサンシスタームーンに倣って、野山で祈り海辺で祈り、信仰を維持することになる。施設がなくなっても信仰を維持するとなると、本当の意味で親離れし、主体的で能動的な信仰姿勢を自らで育まなければならない。日本食口の成長はここからであって、解散という破壊だが、死が新たな生であるように解散という破壊も新たな位相を上げての新生信仰となる。あれほど汗を流して議員先生に尽くして来たにもかかわらず、物の見事に裏切られてしまったその現実が意味することは、私達はただの使い捨てでしかなかったということだ。先天の信仰で世間の人々が屈服するはずがないのは明白であり、そうなると人々の光であり羅針盤でありうる本物の信仰を立てろというのが、神の願いであり私達の摂理的方向性だ。私自身は献身生活を通して教会に身も心も捧げてきた以上、切なくも寂しい想いは勿論あるが、解散の声を受け止めて、もはや死にかけている体に未練を残すことなく新たな出発として旅発つことができる。地に這いつくばってきた成約の勇士は死を超えて大空に羽ばたいていく。今日の日は日本食口の魂の聖和式だ。
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