どれほど論理を組み立てても、どれほど議論を尽くしても、それだけで実体の果実として実ることはないだろう。必ずそれに沿った行動や実体験が必要であって、いざ行動してみると論理思考だけでは想像だにしなかった多くの課題に突き当たり、その都度感情の試練や意志の投入、一旦引いての論理の組み換えやらと実体化には知情意の魂の投入が必要になる。そんなことは周知の事実でありながらも足が地に着いていない食口はそれを理解していない。だから原理坊やと揶揄されお花畑信仰と嘲笑される。私達の歩みで反省すべき問題の一つは、目標達成という果実を得る為の行動だと言いながら、実態は条件としての行動であって本来の目標達成にはならない。すなわち目標を得る為の行動から信仰基台という条件の為の行動にすり替えているということだ。今までの願われた目標の殆どが実らなかったのは、一般の目からすれば頓珍漢な条件的行動で終始するものだから実らないのは当然だ。今回の解散命令請求が出され、長い沈黙の末にやっと重い腰を上げたかと思うと、その行動はデモ行進だという。この期に及んでデモ行進が請求差し止めにどう役目を果たすのか、私は理解できない。私はというと、首を洗って解散要求を先ず受け入れる派だからどうだっていいのだが、教会支持派がこんな頓珍漢な行動に出るのはやはり条件の為の行動という、すなわち条件を捧げて神の援助や断罪を待つという天にすがる意識からの行動に過ぎない。だからこんな、請求差し止めとは直接関係のない指示が出たりする。今は旧約時代に歩む選民ではないから、神が剣で制裁するような直接的奇跡は起こらない。でも相も変わらず選民思考が強いのか、神は我々の味方だから何か起こると信じ切っている。食口は先天時代の幼い信仰からどうしたら抜け出せるのだろうか。言えば私達の復帰路程も同じであって、どれほど原理で論理立てみ言葉で武装するにしても、現実世界では献金だ会員数だと条件物のみに終始していて、内的試練を超えて内的霊的成長をみることはない。ノルマの条件さえ供えればエレベーター式に復帰されるなどありえないし、勝利された心情圏を相続できることもない。
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