父と母は闘っている。一致点、一体圏を模索するために闘っている。食口の誰もがどうしてこんな状態になったのだろうと頭を抱えているが、神が存在する以上成長し一体化するための闘いは繰り広げられる。ある位相に於いての一体圏は確かに勝利されている。それを最終一体と理解することもできる。しかし次なる位相に於いての一体化の為の両者分かれての闘いは必要不可欠だろうし、神と同等でありそれ以上の位相はないというなら既に人間の域を超えていて人間であることの必要性はなくなる。この父母の新たな正分合の働きが無ければ今の世界の問題、人類の問題は解決しないはずだ。今の原理と与えられたみ言葉では解決されない様々な問題があって、宿題は夜の神様の時代に委ねられた。故に新しい時代の幕開けとなった今、父母は新たなステージで闘っておられる。私があれほどに苦悶した家庭の問題は私のみ言葉理解で解決はしなかった。ひたすら祈願するしか方策はない問題に対して、清平摂理は進められ多くの食口達に外的救いはもたらしたが、しかしそれでも解決されない問題もある。私達は地上天国を実に単純にイメージしていた。夢想された、、といえば憤慨されるかも知れないが、その単純な天国イメージがお花畑信仰に繋がっている。父母の一体圏が絵本に見るような仲良しこよしではないことは頷けるとしても、母が父を否定する状況は一体圏とは真反対の状況にしか思えないだろう。しかし私達の単純で粗末な地上天国イメージを認識しているように、一体となられたというイメージもまた単純で粗末なものだ。これまで複雑極まりない歴史が流れてきたということは、これからの復帰路程も複雑なものになるということになる。復帰はけっして教条主義の剣で振り分けられ、人間を羊と山羊に割り振りできるような単純なものではない。言葉が異なる父と母の一致点をどう捉えるか。食口それぞれが良心に尋ねながら、その父母一体圏を認識できない限り、祝福を戴いた私は父母一体故の新しい霊をそなえているとはいえないだろう。
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