責任者達の体たらくで反社のレッテルを外せないなら、個々の食口は立場を変えた方がいい。個々の立場でどれほど説明しようが教会に籍を置く以上寄り付きもされない。教会の人かと問われれば、あの悪名高き教会にいたが辞めましたと言えば生き延びる道はある。そこからが再出発だ。教会があろうがなかろうが信仰は保持できる。そうであっても教会から受け取るものが必要だから自分にとって存続して欲しいのか、それとも世界の救い、国の救いの為には教会が必要だから存続して欲しいのか、それぞれが良心に尋ね考えた方がいい。神の願いは教会という枠に縛られて生きることではないはずなのに、食口達がその枠が必要だと信じて執着するのはなぜだろう。口では信教の自由を叫びながら、内なる声は教条の枠で縛られることを良しとしている。確かに人間は霊的存在で、それぞれ何某かの霊的縛りが本人の意識圏外から働いていて主管されている。私の意識の方向性を決められ、我知らずその道へと誘導される。何らかの枠が人間には必要だという見地に立てば、教会の枠がなくなればサタン的な枠に収まらざるを得ないことへの恐れからだろうか。ここ10年あまりの世界の流れ、それぞれの国の流れを観察しても、意識圏外から働いている霊的圧力はそれほど掘り下げなくとも容易に見えてくる。アベルとカインの闘い、父と母の闘い、父母と子女との闘い、その闘いだけに目を向ければ正反合としか映らないが、一致点を模索する闘いである以上正分合の方が正しい。正しい一致点を国と国民に知らせる為にも解散命令請求に対する闘いはレベルを上げて闘い続けなければならなかった。私達の中に御柱としての神霊が立っているのか不在なのか、明確なのは闘わない者達に神霊は共にない。
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