2008年12月24日水曜日
復活現象
復活は人間が堕落によってもたらされた死、すなわちサタンの主管圏内に落ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、その過程的な現象を意味するのである。したがって、罪を悔い改めて、昨日の自分より今日の自分が少しでも善に変わるとすれば、我々はそれだけ復活した事になる。(復活論、復活の意義より)
肉体を纏い、感覚世界に於いて鉱物界植物界動物界に身を置いているように、霊人体は天使存在と接触を持っている。意識するしないに関わらず、人間の霊的成長に取って天使存在は必然の存在だ。天使存在は、神界天使界の階級段階を下りながらもたらされる神様の願いの一片を受け取りながら、理想世界理想郷へのビジョンを人間にもたらす。要するにそれが天の使いという意味だ。人間の良心に受け取ったビジョンに合わせる形で理想世界は築かれていく。個人に於いては良心に受け取ったビジョンに合わせて、人格完成が為されていく。天使が神様のビジョンを人間にもたらすように、人間が獲得したものを天使を通して霊界神界に届ける。肉体を纏い地上界での経験を通しながら愛の存在として内的霊的に獲得されたもので、自分が住まう霊界様相を天使が築いていく。自分がこの世に生まれ出でた意味は大きい。人生の意味が解らず、或いは知ろうとせず一生を終える者が殆どであるけれど、それは眠りについたまま覚醒することなく人生を無駄に過ごしていると言う事だ。本来の人間としての意識が発動されていない。今日を生き永らえることが意味のあることでなく、今日を生きて何を獲得し何を天使に委ねたのかが問われる。天使は霊的存在として肉体という物質に直接的に働きかける事はない。人間、肉体的に目覚めている間は意識は地上界に浸透していて天使が入り込む余地は余り無い。地上界での経験を通してどれ程内的霊的な事柄、愛に関する深み等、物質を越えた実りを刈り入れる意識と意志を持つ事が目覚めている事の意味だ。眠りについて意識を外す時、刈り入れたものを天使が受け取ろうと待ち構えている。より多くをもたらせばもたらすほど、天使存在との関係は親密になる。そうなると天使がもたらす神様のビジョンも、より強い形で届けられる。昨日の自分と今日の自分を比べてみてより善の想いを少しでも強くするなら、或いは半時先には一歩でもより善なる在り様に近づこうとする意志を持つなら、それだけ復活したと言え、その分天使からのビジョンもはっきりしたものとなり自分の理想像をはっきりと認められるようになる。どれ程小さな一歩であってもそれを重ねる事で、思考にしろ行動にしろ善への意識的なものとして人間様相に表れてくる。
2008年12月18日木曜日
魚釣り
御父様が魚釣りの名人であるなら弟子としてその極意を学び、この、人の世という大海で魚ならぬ人間を釣ることが御父様の願いに応える者としての務めだろう。むやみやたらに糸を垂らしても簡単には食いつかないし、時間の浪費になるのが関の山だ。万物復帰だ伝道だと言われながら、とにかく飛び出し飛び込むことしか能が無い段階は当の昔に卒業していなければならない。にも拘らず相変わらず、旧態依然の遣り方しか思い浮かばないとするなら、修練訓練として設けるならまだしも、それを天の願う方法だと固執するのは知情意を備えた人間としてはどうだろう。何もしないよりはましだと言われれば納得もするが、それを信仰であり侍ることだと言うなら、その中に自分は信仰生活をしているという自己満足的な要素があるのではないだろうかと問いたい。人の世のうねりの中で伝道するにしても或いは経済という大海で財物復帰するにも、人情の機微を深く研究する必要もあり、ビジネスの道理も人一倍研究する必要がある。人の世としてどの様な事に皆の関心があり、どういう情の流れ、価値基準の在り様、気持ちの向く先等を大海の潮の流れのように捉え見据える事が必要だ。潮の流れを読める者でこそ大漁にありつける。更に人間皆平等と言えども多種多様な中から、どのようなクラスにターゲットを当てるのかで漁場も漁の方法も変わってくる。悲しいかな圧倒的に食口は雑魚の部類に入ると思う。自分も雑魚だが自分と自分の周りだけがそうではないだろう。雑魚は雑魚のことしか解らない。雑魚を卒業しないと、この世の多くは我々の一段も二段も上に位置する中級上級魚だ。今、自分も三十年もの歳月を踏んで、その間、人の世の在り様や価値観は大きく変わってきている。その間、決して堕落要素だけが突出し、陰惨な事件に見られるような様相だけが表面に表れている訳ではない。若い人の外的在り様を見る限り、明らかに美形も多くなったしスマートな頭脳回転も見られる。その基準を超えない限り、釣るどころか逆に釣られてしまうか相手にもされない。教会は教会として、家庭は家庭として、そしてそれぞれの信仰も新しいステージにステップアップする時であり、真の愛、真の父母に対する理解を新しい次元の意識として、意識の生まれ変わりを図り、新しい価値観、新しいシステムでこの世を大きく凌駕し刺激し教育していく事ができる真の愛の群れとなる。
2008年12月16日火曜日
今日の想い 33
田んぼに水を引く為に幅一尺から一尺半の水路が廻らされている。三枚四枚ごとの田に水を配る為に何本かの支流に分かれる訳だが、支流の多い分け目はある程度の深みを持たせて容量を大きくしておかないと水の届かない所がでたり、水が行き渡るのに時間の差が出たりする。実はこの深みが実にいい魚捕りのポイントで、小さい頃よく魚を捕って遊んだものだ。所詮用水路だからフナやハエ、ゴキにザリガニぐらいのものだが、ざる一つで面白いように獲れた。結構な山椒魚まで掬い上げたのを覚えている。鮎や山女と言った清流に棲むような上品な魚ではないので、別に捕って食うわけじゃないから、小さい魚をバケツ一杯になるほど捕ってそのまま忘れ呆けてしまい、叔父によく怒られた。子供の時分というのは結構な残酷さを持っている。叔父は生き物に対する殺生を指摘するのだが、怒られるから悪い事だとは認識しても、殺生自体に対する罪悪感はあまり無かったりする。診療所の裏に木箱に廃棄された医療用具から注射器を取り出して、友達と遊んだこともあった。田んぼに幾らでもいる蛙を集めて注射針で空気を腹に注入し、裏手の川に、注入したはしから流した。白い腹を膨らませてぶつかりながら川面を流れていく様が今も思い浮かぶ。あのおびただしい数の蛙はどうなったのだろうか。桃太郎の桃ではないが、白い生々しいものが幾らも流れていく様を畑作業していた者が見て驚いたのだろう。すぐさま村中広まってしまい、悪さがばれてこっぴどく怒られた。さすがにその夜の寝付きは悪かったが、遊んでいるうちは楽しかった。別に自分に限った事でなく、誰もが子供の時分はある程度の残酷さを持っていると思う。胎中の様子も人間の進化路程であるように、人間が辿ってきた一つの魂の段階の初期に於ける残酷性を持っている。けっして神から来るものだけでない衝動を併せ持っている。平和を望みながらも戦争に突入する時高揚感を覚えたり、自分に降りかかるのを極端に避けながら、周りの人に降りかかるのには痛みを感じない自分がいたりする。こと自分や家族に関することには涙を流しながらも、他人事であれば心の隅でほくそ笑むという醜くも惨めな存在だ。子供の頃の純粋さをキープしながらも残酷な影の部分を乗り越えながら、生きて関係を持つ人々に対する思い遣りの気持ちや同じ兄弟としての友愛、年長に対しては親や祖父母に対する感情、年若い者には自分の子に願う想いと同じ想いを強くしていく。年を重ねるに従ってそういった想いをより強くしていくのが、人間としてのあるべき成長だと思う。それが人間として生まれた者の責務だと思う。今年と言う一年も終わろうとしている。此の一年どれだけの内的霊的成長を自分に見ることができたか。
2008年12月13日土曜日
今日の想い 32
ひもじい思いだけはしなかったが、貧しい中で育ったから、周りと比べて恥ずかしい思いはしてきた。日の丸弁当を見られるのが嫌で、皆から離れて、腕で囲うようにしながらそそくさと昼飯は済ませた。田舎だからそう立派な弁当を持参してくる者がいたわけではないが、卵焼きの匂いやら揚げ物の匂いのする弁当を広げて食べる横で箸を進めるには、皆の視線が気になった。ランドセルも小学校に入る時に買っては貰ったが、皆と比べると、持ちが非常に悪く、三年生になるころにはボロボロで使えなかった。その後はずっと風呂敷に包んで通学していた。一番困ったのが傷があちこちに入った長靴だった。雪国だったので冬場は長靴で学校に通う。学校は家から近かったので、靴の傷口から雪が侵入しても溶ける前に着く。しかし体操時間となると必ず屋外でサッカーだったりスキーだったりで、長時間外にいないといけない。スキーも今見るような上等なものじゃなく、スキー板にかんじきをつけたような代物で、長靴にくくり付けて滑った。二時間近く外に出ていると侵入してきた雪が溶け、靴下に浸みて足を氷水に漬けたような状態になる。これには耐えられなかった。冷たいのを通り越して痛かった。足の感覚が無くなって来ると今度は痛みが頭にくる。気が小さく、言いたい事が言えない自分はそれでも耐えるしかなかった。何とか工夫して破れ靴下を重ねたり、長靴の中にビニール袋を入れてみたり、逆に裸足で長靴を履いて濡れるたびにタオルで拭いてみたりと、いろんな事をやって見たが功を為さなかった。それでも新しい長靴を買って欲しいとは言えなかった。弟とは少し年かさも離れていて、弟が学校に通う頃には幾らか商売も回り始めたのか、自分の事はしっかり要求する性格もあって弟には結構それなりの事はしてやっていたようだが、可愛そうに思ったのは妹だった。同じように日の丸弁当を持たされ、私のお下がりで大抵の物は賄ったから穴の開いた靴下しかなく、長靴だって穴は開いていた。女の子だけに自分以上に恥ずかしい思いや嫌な思いをしたと思う。明るい性格ではあったけれど家に余裕が無いのは解っていて、金のかかることはいっさい口にしなかった。その当時の妹への不憫な想いは今でも時折思い出される。教会に通い始めてみ言葉に対する感動を最初に伝えたかったのは妹だったが、献身生活を始めると私的な時間も更には心の余裕もその内消え失せて、妹を伝道するには時間も無かったし躊躇もした。軍隊生活のような当時を恨む想いは無いが、み言葉に対する感動が、心からみ言葉を伝えたいと言う思いに育ち始めた頃、それが出来る内外の環境にはなり得なかったのかと言う思いがどうしてもある。伝道への衝動が今一度湧き上がる日を望むのは、可笑しな話なのだろうか。
2008年12月11日木曜日
今日の想い 31
毎年此の頃になると通りも店もいろんなオーナメントで飾りつけられ、クリスマスソングが響き、日が暮れるとそれぞれに趣向を凝らしたイルミネーションが家々の輪郭を点滅させる。しかし此のたびほどそう言った事が似つかわしくない、どこか空々しい感覚や雰囲気が蔓延することはかつて無かった。確かに買い物客もそれなりに出かけているのだろう。メインストリートもそれなりに混んではいる。しかし暗く沈んだ空気はどうにも無視しようがない。明らかに霊的な空模様、天候が一変した。人々の内的模様が沈んでいる状態で、どのように販売促進を行ったとしても、それに値する成果を得る事などない。既存店舗の全てに於いて売上が下がる傾向にありながら、売上を上げることに躍起になっても決して良い結果は望めないだろう。悲観論に終始する立場で言っているのではないが、売り上げを上げる事がどういう意味があるのかを考える必要がある。ビジネスとして売上追求、利益追求は宿命だと言い切ることもできるが、ビジネスである前にみ旨として、或いはそのような物言いが大げさであるなら、単に幸せを願う人と人との遣り取りを考えた時に、店であれば商品、レストランであれば食事を介して提供する側は何を与える事ができるか、何を与えたいか。商品を与えるのみ食事を提供するのみという認識では客は来ないだろう。プラスαとして考えるのでなく、それを主体として、そして提供するものを対象として考える。自分は何を与える事ができるのだろう、更に、何を与えたいのだろう、という質問がキーワードになる。受けることを先ず捨てて与えてこそ、原理が正しいなら与える存在、為に生きる存在でこそ、その存在は枯れる事がない。存続させる為の受けるものを得る事が出来るはずだ。子供だましでない本当の必要存在であってこそ存続できる。
2008年12月9日火曜日
今日の想い 30
人間は霊の存在である。自分の霊の在り様がわからず、彷徨っているのが堕落人間の姿だ。人間誰もが死を迎える。この肉体を脱ぎ、霊の身体で霊の世界に赴く。しかしこの地上を霊界と区別するけれど、肉体も、全ての物質存在も、霊の表れに過ぎない。自分が霊の存在であり又その霊の在り様が見えないように、流れ行く時間にどの様に霊が働いているか、物質の生成に、民族や国の成り立ちに、政治や経済の動向に、それら全てのこの世の事柄に霊がどう関わっているのかを見ることができない。五感に受け取る表面的な輪郭のみを判断材料にしている。霊を物質に凝縮されているものを私達は五感で受け取っている。念ずる事、即ち精神力で思いを実体化できることが霊の凝縮であることの証だろう。祈りが通じることを理解しようと思えば、その認識に立つことが必要だ。ひとつの願いとしてのイメージを持ったら、思いを強く強くしながら、必ず成し遂げるという絶対的想いに裏付けされて、実体化される。実体化されてこの物質世界に存在している全てのもの、すべての技術やシステム、それらの事柄は人間を含めた霊的存在の想いで物質世界に形成されたものだ。即ち全ての事柄にそれ足らしめる霊的存在の想いがある。夢があり理想があり願いがあり、そしてイメージがある。大きくは宇宙から、周りに転がる石ころまで、更には人間一個一個の在り様に至るまで熱い想いが根底となって存在している。しかし神から来る熱い想いと相まって、偽りの神として関与したこの世の神の想いも人間存在に関わる事柄には複雑に絡まっている。生きるに霊が関与し、幸不幸に霊が関与し、貧富に霊が関与し、成功失敗に霊が関与する。病に関与し、男女に関与し、体型や性質に関与する。お化けが見えたり聞こえたりできるのが霊的感性を研ぎ澄ます事ではなく、背後の想いや或いは逆の方向にある恨みを感じ取ろうとして感受できることを言う。人に見えない霊的存在が簡単に見えたり聞こえたりするのは低次元霊視ともいえるが霊障であって霊に犯され易いとも言える。正しく認識し、正しい価値観を備える。人間として神から付与された創造性は、自らの霊性を喚起することで初めて価値あるものとして産み出される。今置かれた環境がどのようであっても、そこを自分の住まい居所そして天国として創造していく霊的力を人間は備えられている。
今日の想い 29
御父母様が時として吐露される、誰も理解できない御父母様としての孤独な在り様。年を重ねられて、以前には無かった涙される姿を見せられ、周りの人や責任者は戸惑う。我々には立ち入る事ができない神様と御父母様の世界が、そこに厳然とある。この堕落世界に肉体を纏い生きること自体が御父母様にとっては言いようの無い苦痛を受けることなのだろう。生きることそのものが御父母様に取っては犠牲なのだろう。どれほど御父母様に歩み要ろうとしても、どうにも後ずさるを得ないものを自分自身に見る。堕落の末裔としてこの世に存在する自分は、受ける全ての苦労や痛みが、その罪ゆえであることを理解している。自業自得のカルマがそうさせているのであり、今の堕落の在り様を選んだのであり、あらゆる汚い自分の在り様を曝し生きることに没頭している。しかしイエス様がそうであったように、御父母様は堕落の血統圏外からこの堕落論理で動いている堕落世界に足を踏み入れられ、汚らわしい汚物に塗れながらその使命を全うされようとされている。あらゆる堕落感情が悪臭を放ち、陥れようとするあらゆる欺瞞存在に傷つけられ、全身創痍で息も絶え絶えに、いつ事切れるか解らない様相を辛うじて維持されながら、まさしく生きて十字架を背負われ更に十字架に架かられ、その在り様を肉体の背後に隠されながら歩んでおられる。イエス様がそうであるように、全く謂れの無い、晴らす必要の全く無い、堕落人間とは根本的に違う、神様に直結している自我の存在でありながら、無実の罪を、それも全人類の大罪を背負い、その罪を責められる立場で、それを晴らすべく歩んでおられる。我々堕落人間に想像だにできない、暗黒の絶壁であり氷壁に、真っ裸で取り残される孤独の魂として、如何ばかりの心情路程であるのか。どれほど祈り求めようとも、御父母様の内面は解りようも無い。どれほど深く掘り下げても、深く深く想いを尋ねれば尋ねるほど益々、その想いの更に深みにあるのを悟らされるのみだ。御父母様の御魂に会いたいとすれば、どのようにでも御父母様との関係性を深めたい。み言葉の一つ一つに尋ね、み旨に対する想いに尋ね、その表情に尋ね、小さな目に輝くその光に尋ね、ほとばしる涙と、流れ出る鼻水よだれを気にも留めず、神様に言葉をかけられるその祈りに尋ねる。近くによって無視されようが激しく怒られようが、何らかの関わりが持てればそれを良しとし、御父母様の願われる事に魂をかけて応えたいと思い、今日に物乞いを願われるなら物乞いとなり、明日に死ねと言われれば野垂れ死も辞さない。この身がどうなろうとも、この小さい魂に御父母様の御魂が尋ねてくださるその時こそ、この自我が開放される時であり、報われる時である。
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