2008年12月9日火曜日

今日の想い 29

御父母様が時として吐露される、誰も理解できない御父母様としての孤独な在り様。年を重ねられて、以前には無かった涙される姿を見せられ、周りの人や責任者は戸惑う。我々には立ち入る事ができない神様と御父母様の世界が、そこに厳然とある。この堕落世界に肉体を纏い生きること自体が御父母様にとっては言いようの無い苦痛を受けることなのだろう。生きることそのものが御父母様に取っては犠牲なのだろう。どれほど御父母様に歩み要ろうとしても、どうにも後ずさるを得ないものを自分自身に見る。堕落の末裔としてこの世に存在する自分は、受ける全ての苦労や痛みが、その罪ゆえであることを理解している。自業自得のカルマがそうさせているのであり、今の堕落の在り様を選んだのであり、あらゆる汚い自分の在り様を曝し生きることに没頭している。しかしイエス様がそうであったように、御父母様は堕落の血統圏外からこの堕落論理で動いている堕落世界に足を踏み入れられ、汚らわしい汚物に塗れながらその使命を全うされようとされている。あらゆる堕落感情が悪臭を放ち、陥れようとするあらゆる欺瞞存在に傷つけられ、全身創痍で息も絶え絶えに、いつ事切れるか解らない様相を辛うじて維持されながら、まさしく生きて十字架を背負われ更に十字架に架かられ、その在り様を肉体の背後に隠されながら歩んでおられる。イエス様がそうであるように、全く謂れの無い、晴らす必要の全く無い、堕落人間とは根本的に違う、神様に直結している自我の存在でありながら、無実の罪を、それも全人類の大罪を背負い、その罪を責められる立場で、それを晴らすべく歩んでおられる。我々堕落人間に想像だにできない、暗黒の絶壁であり氷壁に、真っ裸で取り残される孤独の魂として、如何ばかりの心情路程であるのか。どれほど祈り求めようとも、御父母様の内面は解りようも無い。どれほど深く掘り下げても、深く深く想いを尋ねれば尋ねるほど益々、その想いの更に深みにあるのを悟らされるのみだ。御父母様の御魂に会いたいとすれば、どのようにでも御父母様との関係性を深めたい。み言葉の一つ一つに尋ね、み旨に対する想いに尋ね、その表情に尋ね、小さな目に輝くその光に尋ね、ほとばしる涙と、流れ出る鼻水よだれを気にも留めず、神様に言葉をかけられるその祈りに尋ねる。近くによって無視されようが激しく怒られようが、何らかの関わりが持てればそれを良しとし、御父母様の願われる事に魂をかけて応えたいと思い、今日に物乞いを願われるなら物乞いとなり、明日に死ねと言われれば野垂れ死も辞さない。この身がどうなろうとも、この小さい魂に御父母様の御魂が尋ねてくださるその時こそ、この自我が開放される時であり、報われる時である。

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