2008年12月18日木曜日
魚釣り
御父様が魚釣りの名人であるなら弟子としてその極意を学び、この、人の世という大海で魚ならぬ人間を釣ることが御父様の願いに応える者としての務めだろう。むやみやたらに糸を垂らしても簡単には食いつかないし、時間の浪費になるのが関の山だ。万物復帰だ伝道だと言われながら、とにかく飛び出し飛び込むことしか能が無い段階は当の昔に卒業していなければならない。にも拘らず相変わらず、旧態依然の遣り方しか思い浮かばないとするなら、修練訓練として設けるならまだしも、それを天の願う方法だと固執するのは知情意を備えた人間としてはどうだろう。何もしないよりはましだと言われれば納得もするが、それを信仰であり侍ることだと言うなら、その中に自分は信仰生活をしているという自己満足的な要素があるのではないだろうかと問いたい。人の世のうねりの中で伝道するにしても或いは経済という大海で財物復帰するにも、人情の機微を深く研究する必要もあり、ビジネスの道理も人一倍研究する必要がある。人の世としてどの様な事に皆の関心があり、どういう情の流れ、価値基準の在り様、気持ちの向く先等を大海の潮の流れのように捉え見据える事が必要だ。潮の流れを読める者でこそ大漁にありつける。更に人間皆平等と言えども多種多様な中から、どのようなクラスにターゲットを当てるのかで漁場も漁の方法も変わってくる。悲しいかな圧倒的に食口は雑魚の部類に入ると思う。自分も雑魚だが自分と自分の周りだけがそうではないだろう。雑魚は雑魚のことしか解らない。雑魚を卒業しないと、この世の多くは我々の一段も二段も上に位置する中級上級魚だ。今、自分も三十年もの歳月を踏んで、その間、人の世の在り様や価値観は大きく変わってきている。その間、決して堕落要素だけが突出し、陰惨な事件に見られるような様相だけが表面に表れている訳ではない。若い人の外的在り様を見る限り、明らかに美形も多くなったしスマートな頭脳回転も見られる。その基準を超えない限り、釣るどころか逆に釣られてしまうか相手にもされない。教会は教会として、家庭は家庭として、そしてそれぞれの信仰も新しいステージにステップアップする時であり、真の愛、真の父母に対する理解を新しい次元の意識として、意識の生まれ変わりを図り、新しい価値観、新しいシステムでこの世を大きく凌駕し刺激し教育していく事ができる真の愛の群れとなる。
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