2008年12月16日火曜日

今日の想い 33

田んぼに水を引く為に幅一尺から一尺半の水路が廻らされている。三枚四枚ごとの田に水を配る為に何本かの支流に分かれる訳だが、支流の多い分け目はある程度の深みを持たせて容量を大きくしておかないと水の届かない所がでたり、水が行き渡るのに時間の差が出たりする。実はこの深みが実にいい魚捕りのポイントで、小さい頃よく魚を捕って遊んだものだ。所詮用水路だからフナやハエ、ゴキにザリガニぐらいのものだが、ざる一つで面白いように獲れた。結構な山椒魚まで掬い上げたのを覚えている。鮎や山女と言った清流に棲むような上品な魚ではないので、別に捕って食うわけじゃないから、小さい魚をバケツ一杯になるほど捕ってそのまま忘れ呆けてしまい、叔父によく怒られた。子供の時分というのは結構な残酷さを持っている。叔父は生き物に対する殺生を指摘するのだが、怒られるから悪い事だとは認識しても、殺生自体に対する罪悪感はあまり無かったりする。診療所の裏に木箱に廃棄された医療用具から注射器を取り出して、友達と遊んだこともあった。田んぼに幾らでもいる蛙を集めて注射針で空気を腹に注入し、裏手の川に、注入したはしから流した。白い腹を膨らませてぶつかりながら川面を流れていく様が今も思い浮かぶ。あのおびただしい数の蛙はどうなったのだろうか。桃太郎の桃ではないが、白い生々しいものが幾らも流れていく様を畑作業していた者が見て驚いたのだろう。すぐさま村中広まってしまい、悪さがばれてこっぴどく怒られた。さすがにその夜の寝付きは悪かったが、遊んでいるうちは楽しかった。別に自分に限った事でなく、誰もが子供の時分はある程度の残酷さを持っていると思う。胎中の様子も人間の進化路程であるように、人間が辿ってきた一つの魂の段階の初期に於ける残酷性を持っている。けっして神から来るものだけでない衝動を併せ持っている。平和を望みながらも戦争に突入する時高揚感を覚えたり、自分に降りかかるのを極端に避けながら、周りの人に降りかかるのには痛みを感じない自分がいたりする。こと自分や家族に関することには涙を流しながらも、他人事であれば心の隅でほくそ笑むという醜くも惨めな存在だ。子供の頃の純粋さをキープしながらも残酷な影の部分を乗り越えながら、生きて関係を持つ人々に対する思い遣りの気持ちや同じ兄弟としての友愛、年長に対しては親や祖父母に対する感情、年若い者には自分の子に願う想いと同じ想いを強くしていく。年を重ねるに従ってそういった想いをより強くしていくのが、人間としてのあるべき成長だと思う。それが人間として生まれた者の責務だと思う。今年と言う一年も終わろうとしている。此の一年どれだけの内的霊的成長を自分に見ることができたか。

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