2010年2月7日日曜日
今日の想い 142
二日続いた雪が止んで今朝は冬の青空が広がっている。暗い雪雲が覆った吹雪の空間は灰色の世界だったのが一夜のうちに一掃され、冴え渡った空気に朝日が差し込むと、灰色の世界は一面の銀世界に様変わりした。時間が経つごとに地上に届く光が増すと、反射光が目に眩しく光はダイレクトに身体を包み込む。熱を帯びた夏の陽光を受け取るのとは違って、雪に反射された陽光は熱を奪われた光としての本質を受け取れる。天宙創造に於ける初期の熱だけの在り様が、より地上的な気体存在とより霊的な光存在として進化するように、雪による反射光の中により強い高次の霊的なエネルギーを感じさせる。堕落的地上的世界を再創造し変革させる霊的エネルギーを感じさせる。陽暦から陰暦に重心を移し、この13日から14日にかけて年が明ける。本当の2010年の幕開けだ。今回の大雪のように外的に見る自然の摂理の中にも新しい年を迎える準備は為されている。このワシントンメトロエリアの大雪は、私自身と店の事をも含めて、アメリカ摂理の要であるものの一大清めの外的表れであると言う事ができる。雪による反射光を浴びながら、目を細めるほどに眩しい反射光を視覚を通して受け取りながら、自分に対する清めが為され2010年の準備を内的霊的に為している。私と言う魂をこの役事に開いて、粛々と執り行われる清めを内面に作用させる。この場に居てこの大雪に見舞われた者としての使命がそこにある。内的霊的感性を鋭くさせながら、地上的堕落的なものに埋もれず天に通ずる自分をより強く成長させ前面に出すことが大切だ。私が果たすべき使命である天の願いが、決意という形で内面に備わる。
今日の想い 141
ここワシントンでは史上まれに見る大雪となった。この冬の雪の多さは今までに無く、そして降れば必ずドカ雪となってしまう。除雪機をつけたトラックがせわしく動き回っても、掻いたはしから積もって殆ど用を成さない。用事があって車を出したが、駐車場から一般道に出るまでが一仕事だった。いつもは引きも切らない車の流れも今日は全て消え失せて、除雪車しか見当たらない白く霞んだ通りはゴーストタウンさながらだ。並木もビルも吹雪に打ちひしがれ、白い魔術をかけられたままだ。大雪が降る年は豊年だ。サンパチ豪雪の時もその年の夏は日差しも強く実りも多かった。冬の厳しさが深ければ深いほど、夏に受け取る恩恵は多くなる。ゼロポイントから下がって上がって戻ってくる波形が一つのサイクルとすれば、夜が最も長い冬至を挟んでかつて無い内的霊的困難な時期が最も下がった時点ではあった。そうして夏至に向かい降りた反動でもってひたすら上がっていく。内的冬の期間の試練に応じて、時間差で受け取る内的恩恵は大きいはずだ。水分を多く含んだ雪は重たい。木々は積もった雪の重さに枝をたわませながらもひたすら耐え忍んでいる。耐え忍びながらも降り積もって被さる雪に対して不平は覚えない。自然体で耐え忍ぶ。甘受することで逆に内的生命力を得ている。試練の時期に於いて無闇に反発感情を高ぶらせたり、それに伴う行動を取ったりすべきではないだろう。吹雪に見舞われ雪の重さに黙って耐え忍ぶ木々の在り様に頭を下げながら、その静かな力を叡智を木々から受け取る自分でありたい。試練を受けることでその背後にある力を得ることが出来れば、夏の降り注ぐ陽光の恵みの全てを余すところ無く受け取る力となる。
2010年2月4日木曜日
今日の想い 140
堕落人間と同じ次元に存在されること自体が、御父様に取ってはその貴い魂を引き裂かれるほどの御立場なのだ。堕落人間は地上の堕落世界の汚れ果てたよどみの中で生きることに、息苦しさを味わうことなどそうはない。魂の在り様自体がよどんでいるからだ。地の底という悪霊が沈殿しているヘドロのどぶ水の中で浮き沈みしながら、罪という心魂の病を自覚もせずにうごめいている堕落人間を、救いだしたいただそれだけの想いで、想像を絶する主の路程を今日まで辿ってこられた。救い出そうと御父様の千切れんばかりに差し出される腕を無知ゆえに払いのけ、塵芥を喰い続けて病む人間魂に薬を与えようとされれば喰えない苦いものを押し付けるのかと罵倒し、魂の霊なる食事を差し出せば逆に糞尿すら投げつけかねない。霊的に見るならそんな有り得ないような仕打ちを御父様に対してし続けてきたのが堕落人間だ。しかし打たれれば打たれるほどに尚更強く愛することを覚悟され、我々が不信仰を助長すればするほどに、逆に御父様の愛は深みを増し加えられる。それは我々の知っている愛の概念を根本から変え、それこそが愛なのだ、真の愛なのだと自らが自らの貴い魂でもって証しを立て続けられる。それを御父様の強さからだと、強さのみで説明できるだろうか。その愛の形は強さを超えて悲しくなる。御父様が我々に差し出された愛の本質を見ようとすれば慟哭するしかない。真の愛として地上に降り注ぎ始めた新しい愛の要素は、御父様の悲痛な犠牲がその本質にある。真の愛によって感化を受け始めた者達は、尽きない涙そのものだと言える御父様の御心情を尋ねざるを得ない。
2010年2月3日水曜日
今日の想い 139
朝目が覚めて、意識を今日一日を歩むことに向けるとき、目覚める自分を待ち伏せしていたかのように、払いきれない靄が一日を見通そうとする意志に陰りを落す。不安と言う靄やおののきと言う靄が陰りを落す。その靄の中に佇み、不安感情の中にうずくまると、度を強めた更なる不安感情として密度を増してくる。囚われてがんじがらめの状態になる予感を覚え、身動きが取れない危険を感じると、やっと意を決し今日一日に向かって歩みを進める。自分の魂を蝕もうとするこの靄が周囲に漂うのを許したままにしている。本当は解っているのだ。自分の弱さや曖昧さ、またそれを装えば天から某かの同情を得て救ってくれるだろうという甘えがこの靄の発生源なのだ。自分の心魂の中に真の父母の御旗を掲げた者としての誇りを持とうとするなら、御父様の息子なのだと断言するなら、この弱さを克服しなければならない。甘えたい年頃は遥か昔に過ぎ去りながら、いつまでも弱弱しく泣きごとを報告する以上、御父様の足手まといでしかないだろう。決意し覚悟した内容も、供えている条件も、そして報告祈祷さえも、弱さが自分の中に居座るのを許したままでは、弱さゆえに全ては虚偽だと言われても仕方がない。周囲のあらゆる状況が自分に矛先を向けているように思えても、実のところ自分の内面の鏡として周囲の状況に現れる。状況解決の答えは鏡に写された外界にあるのではなく、自分の内面にある。自分の内面に於ける口やかましい思考や、暴れ馬の如くに荒れ狂う感情を主管する術を見出すことが大切なのだ。強さとは自分に対する主管力だ。天宙を主管する前に自己主管と言う言葉は御父様の座右の銘だ。御父様の歩みの中に、御父様のみ言葉の中に、絶対的な力、絶対的な主管力の教えがちりばめられている。
2010年2月2日火曜日
良心作用
人間一人一人には良心作用が働いている。この良心とは何かを深く問うてみた者は少なく、内的に感じる何かだと言えるに留まっている。良心は良神であり、魂の健全な在り様の為に一人一人に備えられた羅針盤的存在だ。身体を傷つければ痛みが発し、身体保護の為の機能として備わっているように、魂を病むような思いや感情、そして感覚を起こそうとすれば魂保護の為の機能が働く。心の痛み、即ち良心の呵責として発する内的作用がそれだ。相手に対して誤った行動に出る場合、行動に出るに足る内的思考や感情が堰を切るほどに大きくなっている。思考であれ感情であれ、そして受け取る感覚であれ目には見えないとしてもそれぞれは実体存在に違いない。霊的に見るなら、思考すれば思考形態として霊的靄や霊的雲として現れる。感情形態も感情雲として現れ感覚形態も感覚雲として現れる。人間の内的活動は善なるものであれ悪なるものであれ、そう言った霊的形態の創造をしている。憎む思いを持てば怨念雲を作っているのであり、淫乱な思いに耽れば淫乱雲を作っている。そう言った思いを振り切れば雲も吹き飛ぶが、思いを強くし靄や雲の状態がはっきりとした輪郭を持った形態として自分の周りに漂い始めると、それに霊的滋養分を見出した霊を呼び寄せ受け取り始める。それはその形態に吸い寄せられるように霊的滋養分を取り込もうと浴する霊が入り込んできて、即ち怨念には怨念霊が、淫乱には淫乱霊が入り込んできて自分の周囲を漂い始める。自分の良神が働けば、健全な魂を破壊しようとするこれらの霊存在の影響を心の痛みとして感じさせる。それが良心の呵責だ。良神が強く働いてそれに従えば一瞬にして善なる霊に様変わりし、善霊の平安に包まれる。
今日の想い 138
白髪交じりの頭髪が、昨夜からの熱に身体を転がせ続けたせいか、絡まったままにされている。腫れぼったい顔に虚ろな目を泳がせながら、熱によるだるさでソファーに寄りかかる。いつもはそれなりに紅も付け化粧もしているけれど、その意志を無くして曝した素顔に、それとなく目を逸らしてしまう。その辺りに落ちている枯れ枝のような腕を小刻みに震わせながら、むくんだ足をゆっくりさする。言葉が理解できないのを嘆きながらも、人一倍、店のフロアーを往復している姿をカウンターから見ていたのが昨日の事のようだ。張りのある声で小さな二人の子供を追いかけまわしていたのが、ついこの間の事のようだ。時は残酷ではある。外的な事柄のみを意識に上らせれば時は全てを色褪せさせ収縮させる。様々な色合いを表情に溢れさせ、溌剌とした動きから精気を発散させていた当時の輝きは今は無い。色合いのひとつひとつを失ってきた。艶やかな輝きを失ってきた。しかし本当は失ったのではなく捧げてきたのだ。捧げたものを今子供の中に見ている。捧げたものは御国の礎石として備えられていく。その気付きを得ることで、輝きを失せ収縮した身体の本質的価値を見ている。身体をすり減らすように、精神的歩みの中で心を配り心をすり減らしながら、より大きな魂存在を成長させている。家庭の中で心を燃やして家庭としての魂を成長させ、この国に心を燃やして国としての魂を育て上げ、人類一家族の理想に心を燃やして地上天上天国を築き上げ、私と言う霊は育てたものの中に、築き上げたものの中に安住する。
2010年2月1日月曜日
力の源泉
中心者や巡回師から何度も何度も言われたことがある。他の兄弟に比べて実績が劣るのを咎め、私の顔を覗き込みながらこう問いかける。あなたは何の為にみ旨を歩んでいるのか。そう問われても返答ができない。み旨とは何なのか、み旨とは実績を出すことなのか、中心者はどうして電話番をしながら追求するのか、み旨とは追及されることなのか、今日の歩みと天国建設とどう繋がるのか、自分に取ってはわからないことだらけで何を問われても禅問答のようでたじろいだ。答えに窮しているといつもお決まりの様にこう促される。誰の為でもない結局は自分の為にやっているのだと。そう言われれば何もわからないにもかかわらず、それで納得すべきなのだと思ってしまう。自分の為、自分の為と心の中で繰り返しながら歩もうとする。しかしそれでも力は出てこない。自分の為なのに力は出てこない。それが積もって自分への嫌悪感ばかりが増してくる。目の前にノルマなり果たすべき仕事を提示されて、自分の信じる神様が、これを果たすことはお前の為なのだから必ず実績を残すようにと告げるだろうか。そう思える兄弟がいても不思議ではないが私はそうは思えなかった。ただ追求に耐え忍び生き残ることこそ、神様の為であり救いたいと思った祖父や父母の為であり、そして自分の為なのだと思った。人間は本来、自分の為だと言い聞かせ帰結を自分に置いても力が出る存在ではない。ましてやお前の為だと誰かに言われても、たとえそれが神様であったとしても、自分の事しか眼中に無い人間のように貶められて扱われているようで力は入らない。私達は為に生きることで力を発し、為に生きることで喜びを得る存在なのだ。結果として自分の為だったのだと思えたとしても、帰結は為に生きようとする対象にある。家族の為と思えれば妻や子供の喜ぶ顔が浮かび感謝の声が響いてこそ力となる。御父母様の為にと思えれば私に微笑まれ勇気付ける御父母様をありありと心に捉えてこそ力となる。食べることであれ寝ることであれ、生活の些細なことであっても、全ての行動のひとつひとつの動機付けを愛する対象の為にと明確に置くことで、幾らでも湧いて出る力の源泉を掘り当てたことになる。
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