2010年2月1日月曜日

力の源泉

中心者や巡回師から何度も何度も言われたことがある。他の兄弟に比べて実績が劣るのを咎め、私の顔を覗き込みながらこう問いかける。あなたは何の為にみ旨を歩んでいるのか。そう問われても返答ができない。み旨とは何なのか、み旨とは実績を出すことなのか、中心者はどうして電話番をしながら追求するのか、み旨とは追及されることなのか、今日の歩みと天国建設とどう繋がるのか、自分に取ってはわからないことだらけで何を問われても禅問答のようでたじろいだ。答えに窮しているといつもお決まりの様にこう促される。誰の為でもない結局は自分の為にやっているのだと。そう言われれば何もわからないにもかかわらず、それで納得すべきなのだと思ってしまう。自分の為、自分の為と心の中で繰り返しながら歩もうとする。しかしそれでも力は出てこない。自分の為なのに力は出てこない。それが積もって自分への嫌悪感ばかりが増してくる。目の前にノルマなり果たすべき仕事を提示されて、自分の信じる神様が、これを果たすことはお前の為なのだから必ず実績を残すようにと告げるだろうか。そう思える兄弟がいても不思議ではないが私はそうは思えなかった。ただ追求に耐え忍び生き残ることこそ、神様の為であり救いたいと思った祖父や父母の為であり、そして自分の為なのだと思った。人間は本来、自分の為だと言い聞かせ帰結を自分に置いても力が出る存在ではない。ましてやお前の為だと誰かに言われても、たとえそれが神様であったとしても、自分の事しか眼中に無い人間のように貶められて扱われているようで力は入らない。私達は為に生きることで力を発し、為に生きることで喜びを得る存在なのだ。結果として自分の為だったのだと思えたとしても、帰結は為に生きようとする対象にある。家族の為と思えれば妻や子供の喜ぶ顔が浮かび感謝の声が響いてこそ力となる。御父母様の為にと思えれば私に微笑まれ勇気付ける御父母様をありありと心に捉えてこそ力となる。食べることであれ寝ることであれ、生活の些細なことであっても、全ての行動のひとつひとつの動機付けを愛する対象の為にと明確に置くことで、幾らでも湧いて出る力の源泉を掘り当てたことになる。

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