2010年2月3日水曜日

今日の想い 139

朝目が覚めて、意識を今日一日を歩むことに向けるとき、目覚める自分を待ち伏せしていたかのように、払いきれない靄が一日を見通そうとする意志に陰りを落す。不安と言う靄やおののきと言う靄が陰りを落す。その靄の中に佇み、不安感情の中にうずくまると、度を強めた更なる不安感情として密度を増してくる。囚われてがんじがらめの状態になる予感を覚え、身動きが取れない危険を感じると、やっと意を決し今日一日に向かって歩みを進める。自分の魂を蝕もうとするこの靄が周囲に漂うのを許したままにしている。本当は解っているのだ。自分の弱さや曖昧さ、またそれを装えば天から某かの同情を得て救ってくれるだろうという甘えがこの靄の発生源なのだ。自分の心魂の中に真の父母の御旗を掲げた者としての誇りを持とうとするなら、御父様の息子なのだと断言するなら、この弱さを克服しなければならない。甘えたい年頃は遥か昔に過ぎ去りながら、いつまでも弱弱しく泣きごとを報告するなら、御父様の足手まといでしかないだろう。決意し覚悟した内容も、供えている条件も、そして報告祈祷さえも、弱さが自分の中に居座るのを許したままであるなら、弱さゆえに全ては虚偽だと言われても仕方がない。周囲のあらゆる状況が自分に矛先を向けているように思えても、実のところ自分の内面の鏡として周囲の状況に現れる。状況解決の答えは鏡に写された外界にあるのではなく、自分の内面にある。自分の内面に於ける口やかましい思考や、暴れ馬の如くに荒れ狂う感情を主管する術を見出すことが大切なのだ。強さとは自分に対する主管力だ。天宙を主管する前に自己主管と言う言葉は御父様の座右の銘だ。御父様の歩みの中に、御父様のみ言葉の中に、絶対的な力、絶対的な主管力の教えがちりばめられている。

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