「八衢(やちまた)」という演目だった。神楽は子供の頃から何度も見に行っているが、この演目は耳に新しかった。興奮を覚えるには悪を成敗する鬼退治ものが手っ取り早く、神話の筋など知らなくても楽しめる。秋祭りの神楽は外が白々するまで夜通し舞い続けるが、最初の方は緩やかに舞う神々だけが登場するので子供には退屈だ。しかしやしろ内の電灯が消されて外の屋台からもれる明かりを頼りに太鼓のバチさばきが激しさを増すと、幕合いから煙火が焚かれ煙に包まれて鬼が登場する。興奮のボルテージもあがり、激しく舞う衣装の帷子が跳ね上がって観客に触れるほどになる。神楽村は舞台を見るかたちだから、目と鼻の先で舞うほどの体験は無理だが、それでも四拍子八拍子の太鼓を体に響かせながら舞を見れば誰でも高揚するはずだ。受け売りだけれども八衢は天孫降臨の路程で現れる眷属、西洋風に言えば大天使だと思うがこの天からの道を護る鼻高の猿田彦神(さるたひこのかみ)と降臨を導く天宇津女命(あまつうずめのみこと)との遣り取りを演目にしている。鬼も大蛇も出なかったが、この猿田彦神が結構な暴れ者で見応えはあった。娘も初めての神楽体験で、終わるや否や正月気分を味わったと口にして満足そうだし、本人の高揚した顔を見ると往復二時間費やした甲斐はあった。会場を出るとあれほど晴れ渡っていた空は灰色に覆われ、降雪は激しさを増し視界は数メートル。車をすっぽり覆った雪を腕で払い落し、なんとか運転に支障がないよう処置して帰途を急いだ。娘はやはり雪女だ。
2026年1月20日火曜日
2026年1月19日月曜日
神楽を見る(その一)
三次に向かう国道375号線から横道にそれ、県道を北西に取ると景色は一変する。昨晩から降り始めた雪で急峻な山壁に林立する木々は覆われ、山合に差し込む陽光に木々から落ちる雪が舞い上がって光輝いている。時折現れる空の青が背景となると、沈んだ水墨画の世界が一気に映えてくる。娘は雪女だ。この時期に日本に帰省すると必ずと言っていいほど雪が降る。それも交通を阻むほどの降りようになり予定を変えざるを得なくなる。実は父の、娘にすれば祖父の見舞いに合わせて訪日を早めたのだが、天候のせいもあって父の臨終には間に合わなかった。葬儀は年内にと急いだせいで葬儀にも間に合わなくて元日の夕にやっと到着した。娘にすれば祖母だが一人きりとなった離れの家に手を合わせに向かった。遠路はるばる来たのだからと、親なりに気を使い、ついでにその足で安芸高田まで車を走らせた。安芸高田には神楽村があって秋祭りを逃しても演舞を見ることができる。三が日でも開いていることを確認して往復二時間のドライブだ。平野部から山間の奥深くなる道につれ雪の降りようは増してきた。しかし断続的で雪雲も千切れ千切れで、青空なのに雪が舞っているという状態だ。雪景色は見るには美しい。娘も日常の会話を遣り取りしているうちは可愛さもある。しかし内面に少しでも触れようものなら雪女ばりに冷たい言葉を吐いてくる。そういつまでも若くないので少しは角が取れただろうか、どうだろうか、と思っているうちに目的地に着いた。開演にはまだ時間があるので展示物やら神楽の歴史やらに目を通して時間を潰した。屋内といってもドアはほぼ開けっ放し状態で、実はその時妻は身体を冷やしたようで後々感染症で入院することになる。
2026年1月17日土曜日
今日の想い 1443
日本は役所に行っても、わからないところあれば懇切丁寧に教えてくれる。葬儀も行ったことはあってもやったことはないのでどうなるものかと不安だったが、葬儀社が一から十まで親切に教えてくれて選択肢を出してくれて、全てははいかいいえで応えれば事足り、まさか喪主の挨拶の定例文まであって読み上げるだけでいいとは思わなかった。ある程度の費用さえ出せば至れり尽くせりだ。その分自由度は失せていて、私がどうしたいかではなく世間一般ではどうなのかを基準にして私を合わせていく必要がある。アメリカの役所はそれはそれは冷たい。建物も冷たいが人も冷たい。アメリカに行って先ず運転免許証を取る為に免許センターに行くのだが、こいつは英語がわからないとなると扱いが雑で罪人に対するのと変わらないなと思った。しかし更新の為に何度か行ってみると、英語がわかろうがわかるまいが関係なく丁寧に扱われたことは一度もない。日本人が犯しやすい過ちだが頭を下げて下手に出ると相手は横柄な態度を取ってくる。ふんぞり返るくらいな姿勢で大きな声で話すとそれだけで向こうの態度は変わってくる。体格がない分多少にも体重多めの方が確実にいい。役所だろうが裁判所だろうが、ビジネスの交渉事であっても主張した者勝ちが罷り通っている社会だ。しかし我儘を通せるのではなく主張するなら納得させる必要はある。すべてがこちら次第な分自由度は高くなる。世間一般の基準などないし、だから自分を合わせるのではなく先ず自分の思うところを立てる、信念を立ててこそ前進できる。どちらがいいとは一概には言えないが、日本は言いたいことが言える社会ではないだろう。自分を合わせる社会なのか自分に合わす社会なのか、合わせることに長けた日本人が世界に羽ばたけば、どこでも重宝がられるし確実に角が取れて平和な世界になっていく。
2026年1月16日金曜日
今日の想い 1442
私は御父母様を知って祝福を受けている、神様も霊界も知ってみ旨に歩んでいる、それが食口の誇りとしての柱になっている。それでこの地上で為すべきことはその柱を中心として副柱を立てたり垂木を渡して行けば内的な神殿を築くことができる。原理を知りみ旨に歩んでいけばいいだけ?の人生でその途上で最後を迎えればいい。もちろん食口それぞれで違うだろうが、敢えて括ればそんなところか。そしてそれなりの喜ばしい霊界で居を構えて永遠に生きる。この世の堕落世界は復帰されるべきだが、本質的には神の側にある私とは関係がないし、だから国から断罪されようが社会から疎まれようがある意味どうだっていい。冷ややかに見ればそういう感じだ。果たしてこれが愛に生きる私、心情を相続した私だと言えるだろうか。どこか割り切っている人生、どこか打算的な信仰のように思えて、本当にこれでいいのかと思うのは私だけだろうか。今の社会に対する教会の状況、それに対する食口の状況、アボジが御存命ならどんな言葉を私達に差し出されるのだろうか。もちろん御母様がおられる。しかし御母様の言葉は殆ど伝わってこない。それは食口に任せるところが多くてそうなのか、下の方まで伝わりきらないのかはわからない。今の収監中の身であられる御母様であれば尚更だろう。確かに分派は分派でおかしいのはわかる。しかし教会もどうみてもおかしいだろう。一世はどんどん霊界に送られている。霊界の中に食口の階層があってそこに集って統一村を作っているなら、この伸るか反るかの地上の緊急事態に何らかの働きかけがあっても良さそうなものだが、霊界に旅立ってみるとイメージと大きく異なっていて食口は右往左往なのか、上往下往なのか訳のわからない状態にあるのかも知れない。地上に於いて教会としての明確な見解が見えてこないところをみると、少なくとも天国とか楽園とかで一つになって生活している状況にはないだろう。
2026年1月15日木曜日
今日の想い 1441
献身して人生を捧げてきた一世の多くは、人生を捧げると同時に自らの生命をも捧げることにも躊躇しなかっただろう。み言葉をどの程度理解していたかどうかに関わらず、成約信仰を持つにあたっては初恋にも似た熱情が燃えていた。独生女信仰を持つ食口に、教会初期の熱情的衝動に似た想いを持っているのかどうか、御母様御母様と祈祷する多くは二世食口だと思うが、今の御母様の状況に対して一世達の初期の切実な想いがあるだろうか。独生女信仰に移行(?)できている諸先輩の多くは、論理と言い訳だけは返す言葉もでないほど長けてはいるが、彼等こそ熱い想いは感じられない。少なくとも私が接する一世に関してはそうだ。しかし摂理を牽引していくのは二世達だし、御母様も二世に期待をかけておられていて一世に対してそれはない。だから一世が何を言おうが放って於けばいいだけのことなのだが、老いて力もないのに前面に出ようとして自説を広めるのは摂理を歪める。一世は御母様と二世に対して申し訳ない一心の想いのみであって、二世に対して上から目線でどうこう語る内容も立場もない。一世は摂理の願いに対して大失敗した自覚をしっかり持つべきだろう。解散問題も御母様の収監もその原因は一世のしでかしたことにあるわけで、二世でもなければまして御母様でもない。御母様に対して進言の一つもできなかったのは、御母様に対する畏怖の念からではなく、後でとやかく言われたくないという無責任から進言を避けてきた。御母様を親とは見ず役所の首長ぐらいにしか思ってないから、責められ怒られるかもしれないことに敢えて口出ししようとはしない。食口の多くは神輿担ぎでイエスマンだし御父母様の前で言葉を述べるとなるとおだて持ち上げる言葉しか並べない。一世達が御母様を裸の王様に仕立て上げてしまった。
2026年1月14日水曜日
今日の想い 1440
壇上で語る牧会者はみ言葉を交えながら、溢れんばかりの希望的な言葉の羅列に余念がない。それは恰もトンネルを抜け出せば眩いばかりの天の恩賜が降り注ぎ、試練の期間が悪夢のように消え失せる、そんな期待を持たせてしまう。私達は何度も何度も、幾重にも幾重にも、修練会の中で、また聖日礼拝で、いろんな教会の催しにおいて語られる希望的言葉で現実に対してきた。いや対してきたのではなく、希望的思考や感情という教会の大気の中で安穏としてきた。食口はそんな教会説教を受け取ると、楽天的姿勢や態度を無意識に取ってしまう。楽天的は建設的とは異なる。楽天的は夢想状態で結果責任が曖昧であるのに対し、建設的であれば地に足をつけていて結果に対する責任感情をしっかり引き受けている。アボジから多くの摂理的案件が示されながら、どれほどの結果を残して来ただろうか。何をやるにしても地に足がついておらず、結果を残した日本の万物復帰以外どこも尻すぼみで、いつしか消え失せてしまっている。もし教会がこの世に対してアベルだとするなら、カインをサタン呼ばわりするものの学ぼうとしなかった過去をどう反省するのだろうか。アベルが独走すべく独善的な姿勢で周囲を見ずして何の復帰摂理だろうか。今回の一連の対応については日本の教会の独善性がよく表れていて、聞く耳持たずだ。せめて反省する姿勢の真似事だけでも示せていれば、何らかの生き延びる道が残されていたかもと思うと、残念でならない。教会解散は組織の死刑宣告だというこの重大さがわかっていない。教会が御母様を独生女として立てる第二の信仰に移行するなら、先ず楽天的な無責任性とカイン無視の独善性から改革して、摂理に対して結果を残せる教会にして欲しかった。
2026年1月12日月曜日
今日の想い 1439
体がだるい。どうやら風邪をひいたらしい。インフルなのだろうか。ワクチンは打ったもののこの程度なのはワクチンが効いているということだろうか。微熱があったが今計るとほぼ平熱だ。しかしだるい。重くてだるい。うつしてはまずいので母を訪ねることはしばらく避けたい。霊前に飾られていた花を持って帰って飾っていたが、それらも頸を折ってしなだれてしまった。だるい体を持ち上げ終わった花を始末した。それにしても妻が入院していて幸いだった。幸いだというのもおかしいが、同じ部屋に居れば必ずうつってしまう。今は私はここでひとり、妻は病室でひとり、そして母もはずれの別棟でひとりだ。暫くひとりだった父は重い体から抜け出て、迷うことなく居るべきところに向かって旅立っただろうか。それとも自らの生涯を振り返りながら生きたことの意味を霊に刻み込む期間だろうか。父は法事にはナマンダブナマンダブと口にはしていたものの、死んだら終わりで極楽浄土などないと言い放っていた。要するに信仰は生きている者の慰めであり供養であって、死者は死者で勝手に消えてなくなるものと信じていた。ナマンダブは方便で、殆どの日本人がそうであるように霊を信じない唯物主義だ。父は体を離れても生きている自分を先ず受け入れるところから始めなければならないだろう。浄土真宗は四十九日の苦行の旅は必要なく、阿弥陀如来に即極楽に連れていかれるらしいが、父はそれも信じてはいなかったはずだ。どうもこの体の重さとだるさは父の旅立ちと関係があるように思えてならない。