体がだるい。どうやら風邪をひいたらしい。インフルなのだろうか。ワクチンは打ったもののこの程度なのはワクチンが効いているということだろうか。微熱があったが今計るとほぼ平熱だ。しかしだるい。重くてだるい。うつしてはまずいので母を訪ねることはしばらく避けたい。霊前に飾られていた花を持って帰って飾っていたが、それらも頸を折ってしなだれてしまった。だるい体を持ち上げ終わった花を始末した。それにしても妻が入院していて幸いだった。幸いだというのもおかしいが、同じ部屋に居れば必ずうつってしまう。今は私はここでひとり、妻は病室でひとり、そして母もはずれの別棟でひとりだ。暫くひとりだった父は重い体から抜け出て、迷うことなく居るべきところに向かって旅立っただろうか。それとも自らの生涯を振り返りながら生きたことの意味を霊に刻み込む期間だろうか。父は法事にはナマンダブナマンダブと口にはしていたものの、死んだら終わりで極楽浄土などないと言い放っていた。要するに信仰は生きている者の慰めであり供養であって、死者は死者で勝手に消えてなくなるものと信じていた。ナマンダブは方便で、殆どの日本人がそうであるように霊を信じない唯物主義だ。父は体を離れても生きている自分を先ず受け入れるところから始めなければならないだろう。浄土真宗は四十九日の苦行の旅は必要なく、阿弥陀如来に即極楽に連れていかれるらしいが、父はそれも信じてはいなかったはずだ。どうもこの体の重さとだるさは父の旅立ちと関係があるように思えてならない。
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