2009年10月31日土曜日
眠りについて
人間は眠りを愛する。眠りに入ることで霊界に入っていく。起きている時は自分と言う存在を意識しているけれど、眠りに入ると意識されない自分が霊界に分散していく。胎児がへその緒を通じて外界に接しているように、人間は眠りに入ることで霊界に接している。へその緒を通して外界から届くものが極めて限られ、外界そのものに胎児が直接触れるなら胎児は生き延びることができないように、眠りを通して霊界から受け取るものも極めて限られており、もし霊界そのものに人間の魂が直接投げ込まれるなら人間は霊人体として霊界で生きる魂の力は弱くなるだろう。眠りに入るとき私は無意識のベールをかけられる。意識を持って霊界に参入するなら、その圧倒的な高次の雰囲気に自分の魂は耐えられないに違いない。無意識のベールをかける霊に護られて、限定的な霊界に開示されることで、明日を生きる魂の糧のみを高次の霊界から受け取っている。魂の糧は肉体としての活力以上に人間としての魂活動の活力として受け取る。覚醒時にどういう魂活動をしてきたかにより、受け取る魂の糧の種類も質も違ってくる。誰もが同じ眠りにつき同じように目覚めていると思われるけれど、受け取っているものはそれぞれに皆違う。覚醒時の魂活動を私は何に帰依して為しているかで霊界に持ち込むものも違い、それに相対して受け取る霊的活力要素も違ってくる。今日一日歩んできて今日の出来事を振り返りながら、その外的内的経験をどう捉えどう反省し、どういう教訓を学びどう生かすのか。食事一つとってもその事柄にどれだけ内的意義付けができ、魂の知情意の領域まで引き上げながら自分の内側に刻印できるなら、霊界を主体に置いた地上生活を送っていると言うことができる。
新生
御父母様が希望の実体として立っておられる。私の外にのみ立っておられるのでなく、私の中にも立っておられる。私の外にだけ立っておられるのであれば私は半永久的に御父母様と一つになることは出来ないだろう。御父母様が私の中に立っておられる意味は、御父母様が霊的勝利圏を立てられてマクロコスモス、ミクロコスモス如何なる場所であっても尋ねられることができ、勝利を相続させようとしておられるからだ。私が絶対信仰、絶対服従、絶対愛の基準と一つになって完全マイナスの相対圏に立つことができれば、主体であられる御父母様を私の中に見失うことは無い。私の中に聳え立つ御父母様を見失うことが無ければ、遅かれ早かれ御父母様とひとつになれる。偽りの自分が最後の砦を死守しようとし、自爆的な魂行動に出ようとしても、もはや私の霊の目は御父母様の目になってしまっている。何とも愚かな見え透いた悪魔的な感情を噴出させても、それに騙され踊らされることは無い。私の中におられる御父母様が光を照らされる。今までは暗闇の中から差し出されたものを意味も解らず受け取り飲み込まざるを得なかった。しかし今はその意味を見て取ることができる叡智を光として照らし出される。それが神から来たものかサタンから来たものか、その霊的背後を見通すことができる。私の中におられる御父母様が私の中で益々大きくなられ、私という存在を超えて私を包み込まれる。私を包み込まれることで、御父母様という存在が真の愛そのものであることを悟る。私は微笑まれる御父母様の心情に包まれながら真の愛で霊化していく。私は真の愛で生まれ変わった新しい自分を発見する。
2009年10月30日金曜日
今日の想い 114
他人の放った言葉で自分を責め、み言にも裁かれ、信仰を実らせることができず取り返せない流れてしまった時を羨み、だから自分はこうなんだと現状の問題一つ一つを取り上げて自分自身を恨む。もはや神様に自分はどうしてこんな状態なのでしょうかと談判する意志も起こさず、ひたすら背を丸め日の当たらない隅に身を寄せながら、捨て去られた自分という独房に自分自身を押し込めて、何重にも鍵をかける。何とかその場から引き出そうと、良かれと思い声をかけても、どうしてこんな自分に更なる罵声を浴びせるのかと、恨めしい視線を投げかけながら更に自分の中に閉じ篭る。誰もあなたを裁くことはできないし裁いてもいない。自分に脱落者の烙印を押し続ける存在を神様と思っているけれど、それは偽りのあなたがそうしているだけで、偽りのあなたを本当の自分だと後生大切に囲って拝んでいるだけなのだ。悪魔の声らしく届かない悪魔の声を自分の叫びだと思わされ、自分を否み卑下することを謙虚と捉えているあなたは、明らかに自分を貶めている。自分を貶めることで神様を貶めている。その感情の位置は今までに何度も何度も自分を追い遣った自分の逃げ場所。そこに逃げ込むことで自分を否み卑下することに悪酔いしている。重油のような否定的感情に浸かりこみ、色とも言えぬ暗い色に魂を染めながら、感情は重くなって波打つこともしない。軽やかな、喜怒哀楽が溢れて踊る、遠い昔のあなたの魂を、瀬戸内の海に光たちが戯れるようなあなたの魂を、取り戻せるまでどれくらい掛かるのだろうか。私を責めてそれで取り戻せるのならどのようにでもしてくれればいい。しかしそれでもあなたは私を責めずに自分を責め続ける。
2009年10月28日水曜日
グランドキャニオン その二
うちの連中は朝がめっぽう弱い。この機会を絶対逃してはならないと思い、ついたその日は明朝に備え兎に角早く休むことにした。翌朝、本当に休めただろうかと思いながら、暗闇に目覚ましの音が響くと同時に飛び起きて皆をたたき起こし、宿を出たのが四時半くらいだったろうか。暗いうちにきのう来た道を引返し、空が白み始めるまでヒーターを入れた車内でしばし待つ。幾らか上空の暗闇が薄くなり始めた頃、様子見のために出かけても、岩地の向こうは暗黒が広がるばかりで暗闇の海の底に沈んだまま姿を現さない。車から出たり入ったりを何度か繰り返しながら、最初の光が届けられて天と地の境界線がはっきり捉えられると、徐々に徐々にそれは姿を現し始めた。岩肌の凹凸に合わせて朱色の淡い陰影を浮かび上がらせる。ゆっくりと時間をかけて紋様を広げていくと、幾筋もの地層に沿って微妙な色合いの違いが浮かび上がる。峡谷の底は辛うじて陰影を醸し出す程度で、色の要素はまだ届けられない。暗い遥か地の底から、オレンジ色に輝いて反射する地表近くまでの、岩肌のあらゆる様相や表情をこの瞬間に目に捉えているけれど、最深の位置から地表までの創造歴史は想像もつかない気の遠くなる時を刻んでおり、更に幾億もの地層を重ねて隆起した地層を今度は寝食する作業工程に数千万年の時が刻まれている。その事実を眼前に広がる景観を受けて実感できる人が果たしてこの世にいるのだろうか。創造歴史、地球生成歴史と一言で言うけれど、この小さい魂でそれを把握することは到底出来ないだろう。ほんの数十年間の人生ですら手に負えない魂でありながら、何億万年という時を刻みながら創造の営みに奉仕してきた魂を前に、自分は佇むことすら出来ないに違いない。神様神様と簡単に口にするけれど、それが分をわきまえないあまりにも畏れ多い言動であることを悟るだけが精一杯なのだ。この景観を前にして、芸術的な感性を働かせながらどれ程美しいかを受け取るのではなく、創造歴史の深みと重みを痛いほどに受け取る者となり、小さな悩みに翻弄される己が魂を恥かしく思う宗教的感情を覚えるべきなのだ。光が溢れて峡谷の全容が明らかになり、自分の周囲に目を遣ると、数人の人達が祈る風にも見えて寡黙に立ち尽くしている。私の背後で、寒さに紅潮させた頬を朝日に輝かせながら景観に見入っている妻や子供を促して、グランドキャニオンを背にすることにした。
グランドキャニオン その一
何処までも一直線の道を走り続け、サインにそって幾らかのぼり気味に車を走らせる。パーク入り口のゲートを超えて更に走ると駐車エリアにやっと着く。降りてそこら辺を見回してもそれらしき景色は見当たらない。しかし人が流れている方向に足を進めていくと、峡谷を挟んで向こう壁なのか、地平線がせり上がるように急に現れてくる。山に向かうときはだんだんと迫ってくる感覚を覚えるけれど、グランドキャニオンは一瞬で眼前に光景を現し、急に違う世界に扉を開かれた驚きを覚える。最初にこの光景を発見した人は相当驚いたはずだ。できればここに関する何の情報も得ずに、何の期待感も持たずに、最初に発見した人と同じ状況でこの光景を目にしたかった。もし自分の親でも連れてくるなら何も知らせずに連れて行き、腰が抜けるほどの驚きを味わわせたいと思う。それが大峡谷の見方に違いない。驚きによる高揚感が谷の底を見たい衝動を引き起こし、せり出した岩場へ足を早める。人間としての本性なのか、峡谷の美を味わおうとするよりも何よりも、兎に角自分の位置を先ず確認したいらしい。皆が皆、手すりから身を乗り出して遥か底に霞んで見える川を確認するとやっと落ち着いたのか、おもむろに大峡谷全体を見回しながら鑑賞の姿勢に入っていく。確かに驚きはするけれども、これ程の大掛かりな景観を前にして自分はどういう感情をもとうとしているのか戸惑っている。雄大さを覚えて感激すべきだろうけれど自分の知る雄大さと言う概念を超えるものを目にしているようで明らかに戸惑っている。正直、この景観を目にすることで何を受け取るのか、何を教えようとしているのか解らず、取りあえずはカメラをあちこちに構えながら、そこら辺の観光客と同じ行動を取る以外なかった。その日は予約を入れておいた宿を見つけるため、暮れかかる前にはその場を後にしたが、あくる朝は日の出の峡谷を見ることにしていた。
2009年10月26日月曜日
今日の想い 113
久々に晴れ渡った空の下で、人それぞれの霊界も大きく開放されながら、自由な心情感情を遊ばせて今日の一日を生きる。自分と言う魂を一個の肉体に深く埋め込まれたが故に、他に対する自分、他と比較する自分と言う、他と自分、外と内の隔たりを深く遠く構えているものだから、その溝を何年経っても埋めることができずに、閉ざされた自分を誰もが生きている。自分という存在に固執すればするほど孤独になり、全ての不幸の根源が実はそこにあることも気付かずに堕落人間の悲しい性を生きている。愛という言葉は知っているけれど、それぞれの器に応じて理解されるものだから、途方も無い愛を注がれて存在しているにも係わらず、自分に与えられる愛は極めて限られていると思っている。み言をそれなりに理解して、御父母様を自分の御父母様であると言えるとしても、み旨を要求としての指示事項として捉え、それが御父母様からの真の愛の贈り物であるとは捉えない。み旨を前にして構えれば構えるほどに、自分と言う独房の中に入り込むのであって、み旨本来の接し方とは違ってくるだろう。伝えたくて伝えたくて仕方が無い、与えたくて与えたくて仕方が無い、そう思える魂の開放こそ本当の自分は求めているのだろう。与えること、為に生きることへの理屈など本来必要は無い。他と自分、外と内の皮膚や壁や溝を撤廃し、他の痛み苦しみを自分の痛み苦しみとして感じ、他の喜び楽しみも自分の喜び楽しみとして感じることができる、それこそが解放だろう。他の中に自分は入ることで他を理解でき、広大な宇宙の中に自分は入りながら宇宙に流れる神様の心情を受け取り神様の叡智を受け取る。み旨だと言って構えて身を強張らせて歩むけれども、本来救われるべきは私という魂なのであって、み旨と言う救いの摂理の99%は神様とメシヤである御父様が立てられるのであり、私の立場は救われたい、救って欲しいと言う魂の叫びを御父様に届けて差し出すことしかできない。しかし堕落人間としてそれを為そうとすれば、身を挺してでも帰依する覚悟が必要なのだ。見上げる覚悟の位置を境に、手前は肉の心に自分は操られ、覚悟の位置を超えれば良心によって自分を取り戻すことが出来る。絶対信仰、絶対服従、絶対愛の基準とひとつになるその覚悟こそ、天国と地獄の境界面なのだ。
2009年10月25日日曜日
今日の想い 112
夏場では、一雨勢いよく降ってしまうと後は嘘だったように晴れ渡る。今日朝方は持ちこたえそうだったけれど、そう思うと直ぐにも降り始めた。降り始めた雨は降っても降っても止む気配は無く、空は益々暗くなっていく。夏の雨と秋雨とは別の霊的本性が働いている。この雨に曝されることで大地に息づく全ての生命は活動を弱め、息を潜める。木々や草花が息を大きく吹き返し活動を始める春の様相とは対照的に、息を一雨ごとに弱くしながら仮死状態まで落して行き、やがて来る冬に備えようとする。この雨に打たれることで植物は外界に向かっていたベクトルを内面に向ける。外界から受け取った光を、内面に差し出し、宇宙に通じた内面に差し出すことで繁殖の力を宇宙から受け取る。一日の朝昼夕夜が一年の春夏秋冬にリンクしているように、植物が冬の期間宇宙から繁殖の力、創造の力を受け取るのは、人間が夜寝付くことで、昼に受け取った経験を内面に届けながら明日の生きぬく魂の力を受け取っているのとリンクしている。受け取る魂の力を発展の力、創造の力に費やすことなく、ただ一日を生き延びることのみに使われるなら、人間は植物に対して負債を負うことになる。口にする食物が私を讒訴する。自然の営みには霊的本性たちの叡智が溢れている。堕落人間には想像もできない叡智の領域が自然の営みに係わっている。季節の流れから受け取る感情や深い観察を通しながら、霊的本性の働きを垣間見るだけでも、堕落人間がどれほど恐ろしいくらい無知に陥ったかを知ることができるし、この肉体に住むこと自体が羞恥を超える恐れ多いことだという謙虚の意味を知ることができる。今年の春でもなく、去年の春でもなく、歴史上にはない始めての新しい春を創造するための宇宙的創造の取り組みが、霊的本性を通して既に行われている。
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