2009年10月26日月曜日

今日の想い 113

久々に晴れ渡った空の下で、人それぞれの霊界も大きく開放されながら、自由な心情感情を遊ばせて今日の一日を生きる。自分と言う魂を一個の肉体に深く埋め込まれたが故に、他に対する自分、他と比較する自分と言う、他と自分、外と内の隔たりを深く遠く構えているものだから、その溝を何年経っても埋めることができずに、閉ざされた自分を誰もが生きている。自分という存在に固執すればするほど孤独になり、全ての不幸の根源が実はそこにあることも気付かずに堕落人間の悲しい性を生きている。愛という言葉は知っているけれど、それぞれの器に応じて理解されるものだから、途方も無い愛を注がれて存在しているにも係わらず、自分に与えられる愛は極めて限られていると思っている。み言をそれなりに理解して、御父母様を自分の御父母様であると言えるとしても、み旨を要求としての指示事項として捉え、それが御父母様からの真の愛の贈り物であるとは捉えない。み旨を前にして構えれば構えるほどに、自分と言う独房の中に入り込むのであって、み旨本来の接し方とは違ってくるだろう。伝えたくて伝えたくて仕方が無い、与えたくて与えたくて仕方が無い、そう思える魂の開放こそ本当の自分は求めているのだろう。与えること、為に生きることへの理屈など本来必要は無い。他と自分、外と内の皮膚や壁や溝を撤廃し、他の痛み苦しみを自分の痛み苦しみとして感じ、他の喜び楽しみも自分の喜び楽しみとして感じることができる、それこそが解放だろう。他の中に自分は入ることで他を理解でき、広大な宇宙の中に自分は入りながら宇宙に流れる神様の心情を受け取り神様の叡智を受け取る。み旨だと言って構えて身を強張らせて歩むけれども、本来救われるべきは私という魂なのであって、み旨と言う救いの摂理の99%は神様とメシヤである御父様が立てられるのであり、私の立場は救われたい、救って欲しいと言う魂の叫びを御父様に届けて差し出すことしかできない。しかし堕落人間としてそれを為そうとすれば、身を挺してでも帰依する覚悟が必要なのだ。見上げる覚悟の位置を境に、手前は肉の心に自分は操られ、覚悟の位置を超えれば良心によって自分を取り戻すことが出来る。絶対信仰、絶対服従、絶対愛の基準とひとつになるその覚悟こそ、天国と地獄の境界面なのだ。

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