2007年11月28日水曜日

手術3

バルティモアの大学病院まで4~50分は掛かる。子供を学校に送り出し店に寄って前日の締めを終え、その足で病院まで車を走らせた。昨日に比べると随分気が楽だった。抱えきれないものを抱えようとするとき、天はその器を自分の魂に用意してくれるのだと思う。病院につくとビジターのIDカードをもらい、先ず病院の礼拝室でこの場に居るであろう病院に携わる霊に挨拶をする。そして中二階の広場まで階段を駆け上がり受付で情報を得る。まだ麻酔から醒めていないようだ。後で判った事だがある程度の回復が認められるまで麻酔は継続して投入されるらしい。昨夜は走り回っていたナース達も今日は落ち着きを戻したようで、幾らか落ち着いている。ナースセンターでは談笑が漏れている。相対者のベッドの横で記録を取っていた担当ナースが、私を認めると状況を説明してくれた。日常会話さえ四苦八苦なのに専門用語が入るとどうにも理解を超えてしまう。しかし何の心配もないと言っていることだけは理解できた。一時間に十分づつの面接を繰り返し、意識を戻したのは手術後三日目の夕刻5時を回っていた。まだ身体を動かせる状態ではなかったが言葉をかけると幽かに頷く。腹を大きく裂かれたところに沿って縦長のガーゼが無造作に貼られている。腫れあがったまぶたの奥にある瞳の焦点はどこにもあってはいない。押し込まれた蛇腹のホースで押し出された舌が乾いている。微動だに出来ない状態で一生懸命応えようとするが、その僅かの作業すら相当の困難を要するようだった。見るに無残な姿ではあったが二十数年連れ添ってきて一番いとおしく思えた瞬間でもあった。この想いがずっと魂の中で生き続けることを祈った。

手術2

一瞬目を疑った。朝別れた状態とは似ても似つかぬ姿で横たわっていた。通された回復室はナースが走り回り、まさに戦場の様相となって目に写った。所狭しと並べられた医療機械。様々な電光ランプから発するビープ音。壁に張り巡らされたモニターには刻々と変わる波形が記されては消え、記されては消えている。動きのない患者たちの医療ベッドがそれらの中に埋もれ、そのひとつに組み入れられた我が相対が悲しい。自分を認めたかどうかやおら手足を動かし始める。ナースが走りより耳元で叱り付ける様に叫び続けた。(Calm down! Calm down! ) 半目の状態で彼女はおとなしくなった。顔全体が大きく膨れ、腫れ上がった目元がぴくついている。身体に張り巡らされたラインはともかく、鼻に通され固定されたチューブと口にねじ込まれた大きな蛇腹のホースが見るに堪えない。外の菌を回復室に入れないために、一時間に十分だけ面会が許されている。その日最後の面会まで計4~5回回復室のベッド訪問を重ねたが、手術のあくる日麻酔から醒めることはなかった。毛布を借りて広場で休もうとも思ったが、学校に通う子供のこともあるし不安意識の払拭が先ず必要と考えて、その夜は彼女を残して帰路に向かった。自分は彼女のまさかのときに堪えることができるだろうか、帰る道すがらその想いによる責めが延々と襲い続けた。

手術1

夕刻4時を回っていた。彼女が患者用の衣に着替え、麻酔を打たれて朦朧となりながらも手を振ろうとするのを見送ったのが朝の10時前だった。あれから優に6時間を超えようとしている。手術担当の医師は所要時間として3時間ないし4時間と告げたはずだ。不安が身に被さってくる。こんな想いに身を任すことで不安は現実に変わるぞと後ろの何かが囁き始める。姿勢を一度正し、自分を落ち着かせようと辺りに目をやった。確か十数人はいたはずだ。グラス天上からまばゆいくらいに日の光が降り注いでいた広場も、いつしか電気照明に変わっていた。今は付き添いの者は数えるほどしかいない。先程出てきたドクターに説明を受けていた親子が泣き崩れ腕を支えられている。相対者の手術の様子に対する心配がその泣き崩れる親子から目をそらせてしまった。トイレに立つ気も起こらず呪文でも掛けられた様に、ひたすら緊張して座り続けた。よく考えてもみろ。簡単な手術じゃない。臓器移植だ。時間の掛かるのも当たり前だと自分に言い聞かせて内面を持ち直そうとする。6時にもなろうとする時、やっと見覚えのある上背のあるドクターが自分の所に近づいてきた。私の隣に腰を下ろすと二の腕に手を添え笑みを浮かべた。(All done. Everythinngs are Ok.) 薄緑の手術着を羽織ったドクターの笑顔が、重くのしかかる不安をいっぺんに払拭してくれた。一気に元気の気が足から頭へと立ち昇った。感謝の言葉を唱え続けていた。

自分に対する癒し

まだもやもやしたものが完全に取り払われた訳ではないが、多くの導きと癒しを受けたことに対して感謝の思いで満ちている。導きと癒しは先ず人を介して届く。いろんな人と不器用ながら関わろうとする処に導きが訪れる。小心者で非常に傷つきやすい質の自分にとって、自分から関わろうとすることがどれ程大きな闘いであるかは神様もご存知である。人との係わりが嫌で嫌でどうしようもなく自分の中に閉じこもろうとする自分が嫌いで仕様が無かった。しかしそれこそが自分そのものと言う存在であると認めたのはそう遠い昔ではない。そうであればこそひたすら為すべき事だけを見据えて事にあたる為に、魂の底から祈る想いなくして一歩も進むことはできない。それ故その弱さが自分の強みでもある。その姿勢に神様はついていてくださる。そういう時、故郷に降り積もる雪のようにしんしんと愛が届くのを感じる。困難に出会うときその困難を装いながら、より高次の愛がそこに隠されている。この世に生まれ出でたことに対する感謝の意識が芽生えてきたのはごく最近になってからだ。それまで生まれてきたことに対しての責めをどれ程天にぶちまけたろう。私に対する非難のひとつも口にすることなしに、もくもくと働き続けてきた両親の姿が神様の背中に重なる。私の親なる天の父さまは一言も口にだすことはない。ただただその背中で私を見つめ続ける。あまりにも小さい背中で見つめ続ける。

2007年11月24日土曜日

病気に対する思考

病気になる食口は多い。どうして病気になるのか考えてみる。好きで病気になる人はいない。自分が願わないのに病気になる。しかし本当にそうだろうか。身体に無理を強いて病気になる?しかし身体を酷使するほどでもないだろうしスポーツ選手等にきわめて病気になる人が多いということでもない。病気は気を病むと書く。ストレスから病になるということだ。自分が願わない事、受けたくないものを受け続けると必ず病気になる。もうこれ以上受けられないという自分の許容量の限界を超えると魂は入ってこようとする体験を拒み始める。どこかに逃げ道を模索する。自分の魂が置かれている現状から逃げようともがくのだが、抑えられぬ欲望であったりいろんなシガラミであったり家庭や社会的立場という背負っている責任であったりで逃げるに逃げられない。唯一の逃げ道は病気になること。病気になればそういった事を捨てるかほって置いて身体の痛みに掛かりっきりにならざるを得ない。想い、感情の次元では病気などなりたくないという存在ではあっても、その奥にある深い魂のところで逃げ場として病気になることを望んでいる。それが理解できないというのは自分というひとつの霊的存在に対する無知である。この世に於ける全ての経験が自分という霊的存在を成長もさせ堕落もさせるように病気になることが悪い事とも一概に言えない。私がイメージして理解できることはこの世で病に苦しんだ人は霊界に於いては健康霊体となる、という事実だ。それはこの世で健康であった人と病に苦しんだ人とどちらが健康に対してより意識し、健康の有難さが魂に染み入るほどに理解できるかというと後者である。霊界はある意味この世と逆説的に働く。魂の中に健康に対する意識、感謝の気持ちが大きければ大きいほどそれが自分を健康霊体に創る。自分は愛されているという想いが強ければ強いほど自分の霊体から光(愛)を発し全ての霊界の事物を明るく照らし出す。病気になってもがく状態からその経験故により深い、より高い、より広くより大きい気付きが自分のなかに備わり新しい感覚で世界を見れるようになれば魂の喜びはどれほど大きいだろうか。病と縁遠い人に二通りある。魂の成長の意味を理解し全ての経験を心から感謝している人、今一人は親が死んでも気にもしないほど心情感情に於いて鈍く魂の成長の意味がわからない人。

2007年11月22日木曜日

霊的成長

どんなに優秀な人がデータを分析してそれを基にして頭をひねっても、センスと一瞬の直感に勝ることはできない。どれだけ働いたか動いたかが問題ではなく、一生懸命自己を投入することを通してセンスと直感を磨くことが重要である。それが出来ないなら時間労働の価値は遥かに薄らぐ。どちらかと言うと機械に近いかも知れない。ひとつの動きにしても機械的なものから生命は伝わらない。動きにどういう想いが詰まっているか、すしひとつ握るにしても万感込めて握ったすしは感動的な味わいがあるものだ。その違いを理解しようと努め、行動することがセンスと直感を磨くことに繋がる。自分がどういう意識で行動しているのかの認識がない。それに気付くように言葉を掛けると表情が固まる。何を言っているのか意味不明なのだろう。自分はやることをやっている、それ以上の事など全くイメージできない。イメージできないものに対してベクトルを向けることは出来ない。多くのみ言葉を学んできたにも拘らず、ひとつとして魂に届いたものが本当にあるのだろうかと疑いたくなる。勿論そう言う自分も何もわかっちゃいない。しかし方向は正しいという確信だけはある。霊界があることを否定しないながらも今生きて霊的な関わりが判らないし持てない。死んだ後に行くところだぐらいの認識しかない。どう接することが彼の為になるのか熟考しもっと関わる必要がある。怒鳴ろうが引っ叩こうが何もしないよりは遥かにましだろう。愛するとは関わりを持つことからだと思っている。霊人体がぼやけているなら幽霊とさして変わりない。肉体を纏った幽霊なのだ。自分の配下にありながらその辺のことを無視するのであれば、彼に対しても所属する組織に対しても愛を注ごうとはしていない。。心霊を動員駆使してこの目の前の経験に殉ずることが私の使命だ。それが自分の今生かされている意味だ。

2007年11月21日水曜日

God bless America

ドルの下落はもはや堰を切った感がある。落ちるとこまで落ちる。ドルが下がることが判りながらもFRBは利下げせざるを得ない。アメリカ経済(即ちアメリカ国家)と金融機関を救うためにドル下落など構ってられない、というのが本音だ。8月9日のクレジットクランチ、売り買いが一時的に停止して金融機関取引の空白状態が起きた。大量資金導入をして一時を凌いだが所詮血液の水増し状態だ。薄められれば薄められるほど数倍の資金が必要になってくる。あまりにも肥大化したアメリカ経済という体、癌は切り取ってリハビリからでも再スタートできれば、という状態はとっくに過ぎている。アメリカという体の細胞の一つ一つである市民が、子や孫の代になっても払いきれない借金をし、血眼になって住宅投資し始めたころには既に細胞の段階まで病んでいた。アメリカの国そのものがお釈迦になるという腹を括る必要がある。政府や当局はその実体を晒すことはない。大本営発表と同じで事の真相が暴かれると大混乱となる。取り付け騒ぎに端を発し開拓時代に逆戻りする。ドルは既に地に落ちている。ドル経済圏でその力を利用してきたアラブや中国もいつ背を向けるかしれない。原油が100ドルに迫ろうとしても原産国の収入は減りはしても増えることはない。恐らく5ドル6ドルといったところか。ドルが下がった分相対的に値が上がるか行き場のないマネーが投機筋として原油を弄ぶかで高沸しているだけだ。日本ですらいくらでもドルを買い支えてきたかつての状況とは違っている。束ねられたチューブとワイヤで繋がれた、身動きできない巨体をだれも世話してくれるものはいない。年間1兆ドルが外から入ってこなければ先ず持たない。今年は何とか誤魔化しても来年は目に見えて凋落ぶりが露わになってくる。この状況をしっかりと認識して、さあ自分はどうすべきなのか。ここに生活基盤があるなら、どう転んでも受け入れるだけの覚悟を先ず持つ必要がある。野宿する覚悟があれば生活は何とかなる。

2007年11月19日月曜日

思い込みに巣食う化け物

組織のあり方はそれぞれの組織で違っている。それは組織の性質とも体質とも言える。組織のあり方として決まったあり方、正しいあり方などと言うものはない。ビジネスに於ける組織も同じで、決まったビジネスのあり方正しいあり方などない。敢えて言えば我々の組織は神の願い、摂理をその存在の動機としている以上正しい組織(=天が取ることができる組織)であるとも言える。しかし我々の組織には内に巣食うふたつの妄想が存在する。ひとつは我々の外的実力、とりわけビジネスに関する実力はセンスもなく劣っているという妄想、今ひとつはビジネスと信仰は別物だとする妄想。確かにイメージとしては世間離れした時空で自己否定というお題目を強いられた孤島で信仰意識を繋いできた、と言う感覚がある。今更下野してもその知識と思考技術において大きな差を感じるのはその通りだ。だからと言って自分を卑下するのは正しくない。ひたすら神を視点の遥か向こうに置きながらも天の願いに応えようとしてきた、その数十年の内容が足を地に付けた立場(この世的現実)では無意味なものとの認識はおかしい。何事に於いても事を為すということは判断の連続を意味する。目標(個人的には願い)を手にする為の正しい判断を積み重ねていって自分のものとなる。その判断、決断をどういう根拠と背景で為しているかというところに意識を向けるべきだと思う。無神論者であってもその判断にはこうすればこうなるはずだと言うある意味信仰がそこにある。自分なりの信じるところがあって判断をしていく。私達がその判断をしていく時に、自分を主体とした自分が確信するところの判断をしているだろうか。ここが最大の弱点であり化け物がはいりやすいところだという認識を我々は悟るべきだ。判断をするときに自分主体の意識がない。そこに魂は不在で神も手を付けられないと同時にサタンにとっても何の意味もないような抜け殻状態であることに気付くべきだ。判断のひとつひとつに絶対的信仰が入れば神様と霊界の絶対的共助を得ることが出来る。宇宙が自分と共にある感覚がそこにある。知識がないなら知識が宇宙からやってくる。センスがないならセンスが宇宙から届く。その感覚すらなくて勝利された御父様の次元に届くことなどありえない。霊人体と肉体が合わさって人間としての基本形態があり、霊人体を主体として肉体との関係性でその人格が形成されるように、どういう想い(ミッション)が主体になっているかでその身体としての組織のあり方、ビジネスのあり方が決まる。ビジネスイコール利益という発想はあまりにも貧弱すぎる。しかし未だに儲け儲けという単純思考の怪物が我々の組織に跋扈する。儲けて捧げる、という二段構えだ。儲ける為に蹴落としてもというそこに崇高な霊的意識存在が入り込む隙間はない。せいぜい金貨銀貨を祭り上げる御利益信仰の類だ。解放釈放圏に入った立場でありながら未だに旧態以前の価値意識しかない。意識がそんな状態でありながらモダンなレストランだハイクウォリティーなフードだと外面だけを繕おうとする。外面も大切だがその行動にこの世の実力に遥かに劣る我々だという僻み(ひがみ)が見え隠れして嫌気がさす。そこに邪悪な霊的存在が入り込み、本当に見据えるべきものを曇らしている。

2007年11月13日火曜日

訓読会 イーストガーデン

訓読会の場で一通りみ言の訓読が終わると一人の姉妹に声をかけられた。中国系韓国人の姉妹だ。促されて前に出るといろんな質問に対して言葉少なに応えていた。自分の証しをするようにと言われ最初はたどたどしく声も小さく始めたものの、しかし数分と経たずに本領発揮だ。話すわ話すわ白いスーツに包まれた小柄な身体からとは思えないほどの声量と、自分についての話であったとしてもその溢れんばかりの話題で二時間弱しゃべくりまくった。それもTFが隣におられてマジマジと見つめられながらと言うプレッシャーの中でのこの度胸だ。先ず話の内容がどうのと言う前に彼女のこの在り様に自分とは違う次元にいる生物を見る思いがした。完全に脱帽だ。日本の兄弟でこれほどの度胸を持ったものはそういないだろう。とうとうと話を進めるその姉妹を見つめられるTFの眼差しが印象的だった。時に笑みを浮かべ時に笑い時に頷かれながら我が娘を見るように視線を送り続けられるその姿がその日一日脳裏に焼きつきその映像が延々と繰り返された。その日日本からも数十名参加していたし韓国からも更に数十名参加していた。多くの兄弟姉妹がその場を共有しながら皆何を想うたのだろう。彼女の証しそのものに感銘を受けたものもいるだろうし学んだものもいるだろう。うらやましくも幾分寂しさも感じたのは自分だけだろうか。最後にお決まりの一曲ということでTFに促され、テレサテンが中国語でよく歌っていた一曲で見事に決めた。

2007年11月12日月曜日

訓読会

訓読会に参加する。アメリカツアーを控えTPはEGに常駐しておられる。どういう配慮があって今回のツアーを決定されたのだろうか。2008年からはいよいよ本格的な世界的宇宙的混乱が予想される。2007年迄がひとつの区切りでどういう条件を2007年を境に立てることが出来たかで翌年以降の動向が決定される。とりわけアメリカの摂理的位置は最も大きなものである。アメリカの内容如何で歴史が決定されると言っても過言ではない。アメリカの通貨ドルは世界の機軸通貨である。アメリカの経済破綻が世界にもたらすものがどれほど大きいか少し考えればわかる。政治もまたしかり。ホワイトハウスの決定が世界を決める。それ故にTPはその人生30年以上をアメリカに費やしてこられた。韓国に帰られてからも何度かアメリカでツアーをされている。そして2007年も暮れようとする今、再度路程を立てられる。そこには我々が計り知れない大きな意味がある。歴史的天宙的な意味がある。その重さを垣間見触れることでTPと私の僅かな接点が作られる。自分は歴史を代表した位置にあり、アメリカを代表しアメリカで歩む兄弟を代表し、事業に足を入れた者としてアメリカの経済担当を代表した位置でもある。先祖を代表した位置でもありアメリカで多くの功労を立てた政財界の代表位置でもある。自分がそういう意識をどれだけ持つかでそういった霊人のTPへの門と為り得る。自分が自分として参加する以上に自分がそういう位置で参加することが時間空間を超え霊的な次元に自分を立たせることだ。利己的人間的意識を超えない限りTPとの接点はもてない。

2007年11月6日火曜日

故郷にて

一年ぶりのホームランドである。生まれ育った地は自分にとっていろんな感情、想い、忘れかけた過去を彷彿させる。昔日の日々が決して楽しいもの心地よいものではなかった。思い出したくない感情のほうが多い。しかしそんな様々な経験が今の自分を創っている。それを避けることは自分から逃げることだ。触れたくないと構えていた対峙するものに歩み寄り心を開くことで始めて自分と自分に関与する霊的な存在の清めが始まる。避けたい意識をなだめすかし和らげながら少しずつ少しずつ距離を狭めていく。自分の内にある凝り固まったものを融解させながら、それに応じて外的な事象も表情を変えていく。外的現実をのみどうこうしたいと思うても無理が生じる。全ての外的な内容は内的表れである。自分を取り巻く現実そのものが自分自身だというそこに気づかない限り本質的変革はありえない。日本の風はやわらかい。吸う空気にもほのかな甘さのあるのを気づくだろうか。それは日本人の体質そのもの。性格にしろ何にしろやわらかさの良い面もあるが曖昧と捉えることも出来る。他の民族が日本人に触れてその優しさを強調する人もあれば、はっきりしない何を考えているか分からない曖昧さを強調する人もある。やわらかさ、曖昧さを装った上っ面の下に巣食う自堕落なものをはっきりと指摘する必要がある。日本の性風俗はやわらかさの典型的な表れだ。善悪の住み分けを曖昧にしてやわらかさ優しさを極めればそこにいくしかない。内の組織にも見られる日本的組織のあり方はお上は絶対という意識を働かせる。それは曖昧な日本人をひとつにするための方便だ。首を傾げるようなご託宣も敢えて反発しようとはしない。他民族をいれたり日本人でも若い者をいれようとするとこういう組織のありかたは全く通用しない。どのような組織のあり方、何人かがひとつになろうとする時どのような関わり合いが理想に近いのだろうか。こうあるべきものと言うものは恐らくない。夢を形にし想いを遂げていくように我々が作りあげていく、創造していくものなのだろう。その過程が楽しく喜びなのだろう。