2008年8月2日土曜日

送金

決して少なくはない額を支出した。こういう時に先ずやるべきことは祈ることだろう。一つの店を与って、自分の事として自分の店として営業しないかぎり利益などでない。責任者がどれだけ自分の店だという主人精神に立っているかに懸かっている。その想いを持つなら、この額を出してください献金してくださいと言われて、何の感情も無く出せるということは有り得ない。銀行に行って部屋に通され、トランスファーの手続きを行う。マネージャーなのだろうか、この大柄な黒人女性は私がアカウントのサイナーである事を確認すると、鼻歌交じりにキーボードを打ち始めた。プリントアウトされた用紙を手元の送り先のバンクとアカウント番号と一致しているのを再三確認し、サインした。ものの十分も懸からないこれだけの作業だが、疲れた。身体の力がいっぺんに抜けた。今、相手方の口座に移った数字にどれだけの客の想い、従業員の想い、天の想いが込められているだろう。店のことを本当に思うなら痛みが伴う。この金を出すことで店は痛手を蒙る。この金を出すことが本当に願いだろうか、という問いが暫く続く。この店が御父様の手足の一つであるという想いがあるので献金を出すということは御父様が自分の手足を喰っているという感覚が私にはある。個人的な想いではなく、主人精神に立てばこその様々な想いが出てくる。だから先ずやるべきことは祈ることだろう。この支出が御心のままに使われるよう、支出することに対する悶々とした想いを払拭し感謝の念を込められるよう、これが条件となって天の願いに応える展開が出来るよう、祈ることだろう。そしてどうやって新たな活力を生み出し、自分もヤル気が出て従業員にも希望を与えられるか。

0 件のコメント: