2014年7月28日月曜日

責任分担への意志から私の血統内容が見て取れる

よって人間の責任分担とは恩讐である愛せない者を愛するのであり、愛するという能動的な姿勢でこそ前進できるのであり、それは前進する私を後押ししてくれている過去に前進してきた全ての存在の悲願を受け継いでいるから生まれ出でたのであり、生きて前進できる訳でもある。だから私は遠い過去から現在の私までのその歴史的路程で、支えてくれて後押ししてくれている全ての関わっている存在に対しては受動的愛である感謝の念を供えてこそ蕩減原則に合うようになる。今日は24回目の七.一節を迎えた。縦横の八段階を勝利され、長子権、父母権、王権を立てられた御父様は、今度は子女である私達にその勝利圏を相続されるべく、眞の父母の責任を全うされた位置で子女の責任へと移された。よってこの日が氏族メシヤの出発の日でもある。基元節の前に御聖和されてしまった御父様であり、新しい歴史、後天時代の出発は地上に残られた御母様を中心に前進している。残られた御母様は聖霊実体であられる御母様だ。2000年前は復活されたイエス様が弟子達を集められて、ペンテコステが彼等に下りて内的霊的に再出発したわけだけれども、再臨主の時代である現代は、御聖和されて後、生きた聖霊実体を私達は戴いて私達は聖霊実体と一つになることによって私達祝福中心家庭が聖霊の役事を為していくことになる。私達は御母様がどのように現状を捉えられ、どう向き合われ、何を意志されようとしておられるのか、その一挙手一投足を研究し心魂の一つ一つの動きまでも把握し、心情の深みに於いてひとつになって初めて一体圏の位置で私達の意志に聖霊が宿ることになる。この世の者達が私達を見て聖霊が生きて働いていることを実感するほどにならなければならない。御母様との一体圏に入ることが出来れば必ず聖霊が役事する。私自身に聖霊が役事する以上に私が聖霊の役事をするようになる。清平の摂理が出発した、その御父様の願いが何処にあるかと問うと、受動的には癒しの役事を受けることだけれども能動的には私が聖霊の役割を果たすべく、聖霊が私を通して地上に働きかけることにあるはずだ。先祖の解怨や祝福も、絶対善霊となった先祖の霊達が私に働きかけて、私が聖霊実体の御母様の代身となって、聖霊の役割を果たすことを願われている。だからどのよにして御母様との一体圏に入れるかが大きな鍵となる。過去の流れから私に受け継いだもの、責任分担として私から前へ前へと放たれるもの、私を通過する過去から未来へのその流れの中に一貫して働いている衝動の在り様こそが、私の血統圏は何処に所属しているのか、神なのかサタンなのかの正体だ。

2014年7月27日日曜日

責任分担という天宙的概念

アダムとエバが完成する為には責任分担を果たさなければならなかった。堕落は、人類の真の父母となるべきアダムとエバが、取って食べてはならないという戒めを破り、責任分担を完遂できなかったことによる。ルーシェルの誘惑がなければ戒めを破ることはなかったかも知れないが、責任分担という観点から見る時、誘惑を越えなければ責任分担の完遂は為せない訳で、堕落してしまったからルーシェルはサタンになったが、もし誘惑を跳ね除けて戒めを護っていたなら、ルーシェルの誘惑は責任分担完遂の為に大きな一役を買って出たことになる。その意味では堕落したからルーシェルは神様と人類の怨讐サタンになってしまったが、アダムとエバが誘惑の試練を勝利していたなら彼等はルーシェルに感謝し、ルーシェルは完全に彼等を慕い侍り、ルーシェルは直接主管圏に共に入り人間のあらゆる喜びを創造していく助け手になったはずだ。韓国が主の国として立つ為には第三イスラエルとして立ち、天宙的なカナン復帰路程を出発する為に、40日サタン分立基台が必要だった。この40数に該当する苦役期間を受ける為に日本の40年統治がある。韓国は日本の統治を恨みとして抱いているけれども、日本が現れずとも何処かの国がサタン的役割を果たす必要があったのも事実だ。しかしその事実を日本が口にしてはならず韓国自身がそれを認めて日本を許さない限り日本はうかばれない。御父様が父の国韓国に対して母の国として怨讐日本を立てられたのは、韓国にとっては日本を許し愛さざるを得ない状態に敢えて追い込まれたという、真の父でしか発想できない深い摂理的内容がある。神様が、エバに近付いて誘惑するであろうルーシェルに対して、アダムとエバに対する位置を任されたのも責任分担完遂への深い神様の思惑があってのことだ。許せない者を愛するとか怨讐を愛するとかという事柄と、責任分担の完遂とは切っても切れない関係性にあるはずだ。逆を言えば責任分担の完遂には必ず許して愛する怨讐的存在がなければならないということでもある。そうなると責任分担という概念には、私達が思っている地上的な意味で責任を果たすという意味以上に、愛せない者を愛する、すなわち恩讐を愛するという意味合いの方が強いと思われる。御父様は責任分担という言葉を発見されたのではなく発明されたとある。人類の堕落の問題や復帰の問題、どうして完全な神様が不完全な堕落しうる人間を創造したか、あるいは堕落の位置から復帰して救われる為にはどうすべきかと言うような解決しようのない問題に対して、この責任分担という概念の光で照らすことによって初めて解決できると言う、歴史を生きたどんな聖賢聖者も解くことができなかった天宙の次元方程式を発明されたことになる。

2014年7月24日木曜日

今日の想い 769

御母様を人間的に見ている。人間的にという意味は人情的という意味でもあり、堕落人間の立場から見ているということでもある。御父様を見るにもそうであるけれども、この目で見てイメージしている御母様が御母様の本当の御姿ではない。人間、特に堕落人間と言った方がいいかも知れないが、人間には霊的位相を見る目がない。肉体的な御母様を見、あるいは心魂的に優しさだとか気高さとかというイメージをして御母様を見ているけれども、しかし霊的神霊的位相としての御母様の姿を見ることができないでいる。要するに本人は御父母様を認識していると思っているけれども霊的な感性が開かれていないのでその観点からの認識ではない。霊的認識の段階はイメージからイマジネーション的に、そしてインスピレーション的に、さらにインテュイション的にと霊的感覚を高めていく。実は肉的五感と霊的五感は表裏一体なのだが、人間の意識は圧倒的に肉的五感へ光を当てるのみなので、背後にある霊的五感は照らしだせない。よって信じている御父様のみ言葉によって立てる推論として、御母様を御母様として認めている訳だけれども、霊的位相を見ることができれば自分なりに受け取ったみ言葉から推量する必要など無く、御母様は明らかに御母様だと認識する。しかし霊的位相を見ることができない人間にとって御母様だと推量するにしても、御父様の妻であるとか、私達の母であるとかという地上的平面的な観念以上の認識をとらえることができず、勝利された御母様、神様の妻の位置に立たれておられる御母様、さらに御父様を産み出した御母様という認識については平面的言葉の持つ意味以上にはならない。私達は認識に限界があることを再確認して、御母様に対する理解も認識も不十分なものであることを自覚しなければ、ここまで信仰を繋ぎ精誠を供えてきたのに、御母様に対する決め付けた限定的認識によって足を払われてしまいかねない。先回語られた御母様のみ言葉は、私達の御母様の認識を揺り動かすものであり、霊的神霊的位相に一歩も二歩も踏み込まれた言葉だった。私達が先ず悔い改めるべきは御母様に対する限定的に決め付けた認識だろう。そしてさらに、摂理の遅延、基元節以前に御父様の御聖和を迎えねばならなかったことは私達祝福家庭の責任であるにも関わらず、誰か他の責任でもあるかのように負債を覚えていない。御母様は御自身がスイスで精誠の条件を立てられて、そんな私達を許して白紙の状態で接して下さる。私達は御母様に対して、「どうか私達を許さないで下さい。犯した罪に対して鉄槌を下して下さい。」と言い寄るほどであるべきなのに、何の負債も感じないのか平安な気持ちで笑っていられる。御母様は私達に対してもっと厳しくあるべきだと思う。許す必要もないと思う。私達が失敗してきたのは、信じる基台もない私達に御父母様があまりにも許して信じてこられたからだ。この群れに今必要なのは過酷さであり厳格さだ。

2014年7月22日火曜日

今日の想い 768

新しい一日だ。朝に目が覚めるその意識の一瞬は確かに真っ白だ。真っ白な自分をその瞬間に自覚できる。その瞬間を置いて、昨日や過去との延長にあるもの、置かれている現実、様々な感情が一挙に雪崩れ込んでくる。そうして溜息混じりに体を起こす。現実が意識の大半を凌駕してしまって、そこからやおら理想の旗を掲げて戦いに挑むとしてもなかなか難しい。逆に目覚める瞬時に未来的な希望を、理想的内容を、理想的感情を、現実を意識する瞬前に一挙に投入する。そうすることで、もちろん現実は現実で雪崩れ込む訳だけれども、それでも理想の版図を少しでも広げられる。たとえ時間と共に現実に凌駕されていくにしても、それでも理想の我が内面にあるうちは理想を意識できる。理想を意識することで僅かであっても理想の実体化が進められる。自我意識が自体自覚という堕落意識によって占められている以上、その隙間をしてでも他体自覚の理想的意識を投入する必要がある。隙間が生じるのは目覚めの一瞬にしかない。夜の私から昼の私への瞬間を占領して自我改革をするしかない。霊の呼吸として夜に為される霊の吸引と、昼に為される霊の排出の、その狭間で改革するしかない。訓読会も早朝であるべきだが、仕事の関係上なかなか時間を取れない。仕方なく今は夜休む前とかに訓読しているけれども、早朝にやることの意味は確かに大きいのだろう。現実の意識が雪崩れ込む前にみ言葉を投入して夜と昼の私の狭間でみ言葉による改革を施す。そう言えば以前777双の中心者に朝を奪われる者はその日一日を奪われると教えられたけれども、確かに当たっている。泣き事のような内容もアップしたけれども、私の現実を表現するなら悲しいかなその通りだ。その通りでもがいているけれども、だからこそ人一倍み言葉を求め、御父母様の御心情を求めなければならないと意志すべきで、その意志の中に必死の想いで神様が私に働きかけておられるのを見なければならない。新しい一日が始まると私の意識は瞬時の思い思いをその日一日辿っていく。ただ内面にあるものだけを辿っていくのか、はたまた内面と通ずる異次元から流れ込ませて意識的に思いを創造し続けるのか。内面にあるものだけを辿っていくなら時間の流れに主管されていることになり、内面にない新しい思いを意識的に創造し続けるなら逆に時間を利用しているし、創造する時間を押し出している。今日の一日を意志するものとして生きるとはそういうことだろう。

2014年7月21日月曜日

今日の想い 767

私はというと、同じように不安と戦い、絶望と戦い、躊躇する自分と戦い、一歩踏み込む毎に見え隠れする恐怖と戦っている。心身一体圏、父子一体圏こそがこれらの戦いを突破できる武装されたトランスフォーム体なのだと思うが、その完全なる一体圏を未だ習得できていない。み言葉に向き合いながら無知にも程があるだろうと、自分に対して吐息が出るほど情けないが、本質を受け取れないまま時間だけは過ぎていく。こんな状態で天の父母様は訪ねて降りては来られないし、御父母様も最初に御食事を差出した時と同じように、そっぽを向いたまま視線を合わせては下さらない。この悶々とした日々を永遠に積み重ねていかなければならないのだろうか。積み上げた先に一体圏が現れるのだろうか。これでは死ぬにも死に切れないだろう。どこまでも能動的でありたいけれども、正直なことろ高みを目指すに疲れている。自分の心に聞け、良心に聞けと言われるけれども、私の良心も未だ黙したまま口を開かない。今日もまた目が覚めると同時に待ち構えていて襲い来る不安の化け物、絶望の妖怪、地を這うことをやめない躊躇する自分、それらとの消耗戦に翻弄される。私はこの自分そのものですら怨讐だ。怨讐である自分をどう愛すればいいのだろうか。心身一体など夢のまた夢だ。堕落の血が恨めしく、抜き取っても抜き取っても未だに皮膚の下で蠢いている。パウロの告白は私の告白でもあり、御父母様の祝福を戴いた私であるにもかかわらず、同じ嘆きとして私の中で叫んでいる。別にこの世的な人格者を標榜している訳ではない。霊的な視聴が開かれるのを望んでいる訳でもない。責苦であろうが虐げであろうがいくらでも甘受する。しかし私の底の方で、心身一体圏、父子一体圏には辿りつけないという不信が居座っていて、その不信を払拭することができないでいる。子として認められたいけれども、子としての扱いを受けているとはどうしても思えなくなる。その愛の減少感でもって高みを望もうとする力に変えるのではなく、自分からも愛さないことで相殺させようとする。だから戦いはするものの、どうせ負け戦だと開き直っている部分がある。この私の中にある限界線をどうにも突破できない。心身一体、父子一体で限界線を越えて、届くべき境地に届きたい。今日もまた、捨てられて忘れ去られた愛の減少感で胸を締め付けながら、それでも今日を生きようともがく。未だその本質を掴めないみ言葉のひとつでもしがみ付いて、今日の一日を生き抜いていく。私が知らないだけで、天地開闢の天の運勢圏に突入した者達が既にいるのかも知れない。そうであるなら何としても教えを請いたい。私が訪ねていくには御父様は遥か彼方の高みにおられ、私の心情の足では遠すぎて千年万年かかってしまうだろう。今、私の中に訪ねて下さる御父様だという確信が揺らごうとしている。主体の私がこんな状態で、妻に希望を持たせ、子供達の吸引力になれるだろうか。一度でいいから、神様が地の底から立ち上がることができない私を尋ねてくださって、ただ抱きしめられたい。

2014年7月19日土曜日

今日の想い 766

みんなそれなりに長い信仰生活を歩みながら、いつのまにか惰性的になり、そして疲れている。もし私の思い違いで、本当は多くの兄弟食口が信仰に燃えていると言うのであれば、嬉しい勘違いなのだろうが、おそらく疲れているというのが現実だろう。自分自身を鼓舞するようにみ言葉に向かっても、祈祷を重ねても、条件を供えても、遥か昔の復帰された当時の心霊は取り戻せない。人間に思春期があるように、教会にも私の信仰にも思春期があるようだ。思春期は取り戻せないけれども、しかし思春期を通り過ぎたからといって信仰が消え失せる訳ではない。本当はある期間を経ることで信仰のステージは上がっている。上がっているのに過去を振り返ってばかりでその当時を懐かしく思うばかりでは先に進むことはできない。今のステージには今のステージでしか活動出来ない信仰の在り様がある。疲れないように歩みなさいと御父様が言われたのは、疲れるようになるだろうという前提で語られたことだろう。疲れてしまえば、何とか信仰の思春期の心霊を取り戻そうと、分派の活動に関心が向いたり、教会に対して批判したりしてしまう。思春期の心霊状態は取り戻せないにしても、長い信仰生活の中で様々な垢が付着しており、垢落としをして白い心霊を用意することはできる。様々な問題の認識は、何らかの理由をつけて自らを正当化し、感謝の想いが影を潜めているか、為に生き、与える行動に躊躇することによっている。御父様は収容所の中で、僅かなムスビの半分を与えてまで敢えて他の為に生きたのであり、週に一度だけ与えられた食事を全て食して敢えて感謝の想いを供えた。御父様がそこまでされて基準を示されたことを私達は忘れてはならない。疲れているなら疲れているなりにも発電して、僅かであってもみ旨への献身を差出すべきだろう。あるから与えるのなら誰にでもできる。ない中でもそれでも与えてこそ御父様の息子であり娘だと言える。そして感謝できないなら敢えて今の位置から更にマイナスの位置を甘受して、週に一度元の位置へ戻してでも感謝の想いを持つべきだろう。神様は飴と鞭で私達を教育するのだろうか。それとも真理と神霊で私達を成長させるのだろうか。鞭ばかりで飴をくれないと嘆くのではなく、真理と神霊でこそ、すなわち御父様の知恵と御父様の心情でこそ乗り越えることができる。

今日の想い 765

人間が肉体を持っている以上、肉的欲望は常にある。肉的欲望があることが肉体が生きて健全であることの証しでもある。肉的欲望とは肉的な刺激を求めることだ。肉体は肉的五感の刺激を常に求めている。目は美しい形と色合いを求め耳は美しい調べを求める。触れるによいものを求め味わいも求める。しかし人間が複雑なのは、五感を通して性的な刺激を求める存在でもあるということだ。性の刺激は純粋な肉的五感の刺激のみならず、心魂の刺激でもあり、さらには霊的刺激だ。そしてその刺激には愛が関わっている。それが真の愛か貶められた愛かはここでは論じないが、性は確かに愛が、もっと言えば横的な肉的愛も精神的な愛も関わっている刺激だ。性の刺激を求めるに何が動機でありどう主管するかがそこにどんな愛が関わるかを決定している。刺激を求めるままに行動して、そこに真の愛が関わることはない。真の愛が神様から来る縦的愛である以上、縦的なものを無視した横的行動に真の愛が関わることは無い。肉的愛の一方で精神的愛がある。肉的愛はより横的愛であり、精神的愛はより縦的愛だ。性的刺激への衝動をどう主管するかだが、創造本然の人間であればその衝動は起こらないという訳ではもちろんない。しかしその衝動は精神的愛が先ず重んじられてその許可を得る形で肉的衝動へのアクセルもブレーキも踏まれるはずだ。もし肉的衝動そのものだけを肯定するなら、フリーセックスの神であるか、或いは性的衝動も肉的愛もサタンから受け継いだものかのどちらかに断定するしかなく、そうなると創造本然の人間の絶対性は否定されるか、創造理想的には性の喜びなどあり得ないことになる。しかし創造本然では絶対性であるし本然的な性の喜びもある。人間は堕落して偽りの愛と真の愛の区別がつかなくなったから性の衝動に主管され惑わされる。堕落人間としては外的な性的愛への魅惑ばかりが愛の強い実感を受け取るのであって、それが多くの場合偽りの愛によるものであることを知らない。性的衝動の強い者は業が深いとよく言われる。しかし性的衝動が強い者は実は精神的衝動も強い。縦的な愛であれ横的な愛であれ、どちらも同じように能動的な力が必要であって、その力の方向性を正せば神霊を強く求めるのであり、性的愛を越える愛の刺激を精神的愛を通して覚えるようになる。天との深い心情的一体感を覚えて相対に向かう時は、肉的五感を遥かに越える愛の刺激を受け取るだろう。神様の結婚式を挙げると言えるほどの御父母様の境地には届かないにしても、その場には確実に私を越えたより天に近い高次の男性性が介在し、相対の中にも同じように高次の女性性が介在している。

2014年7月16日水曜日

今日の想い 764

私は新しい歴史の開拓者だ。新しい歴史は基元節を越えて始まったばかりだが、私が存在している先天時代からの事情圏、環境圏は遠からず消滅してしまう。そうして私自身も、新しい歴史の住人となるために、全く新しい存在様相を呈する者とならなければ立ち行かないだろう。事情圏環境圏はどんどん融解していく。事情圏環境圏が融解していくとは、固定化されていた先天時代の概念が崩壊して、全く新しい概念として光を放つようになる。概念が変われば観が変わる。人生観や価値観、そして世界観や死生観などのあらゆる観が変われば認識も意識も変わる。認識や意識が変われば生活も変わる。人類の殆どはこの起こっている事実を知らない。人類殆どが知らないばかりか、み言葉を知る統一食口でさえもこの事実に気付かない者達が多い。気付かずに相も変わらず先天時代の事情圏環境圏にしがみついて生きている。程度の差こそあれ自分もその内の一人ではあるのだが、、。霊界が愛の呼吸で生活する世界であるように、地上の生活は空気を呼吸して生活している。しかしこの世的な愛ではなく真の愛の概念として受け取られることで愛の呼吸という言葉が成立つ訳だが、地上の生活も物理的な空気を呼吸するのではなく、物理的なものを越えた真の空気とは何だろうか、真の空気を呼吸すればどう変わるのだろうかと言ったような、内的霊的知への関心が高まらない限り、先天時代と同じ事情圏環境圏に住み続けることになる。先にも言ったように先天時代の事情圏環境圏は消滅する。とにかく献金しなければならない、伝道しなければならないと躍起になるとしても、伝道するに自分が復活して活かされている実感を持ち得ずにどうして相手を揺さぶる霊的喜びを与えることができるだろうか。伝道の勝利は確実に、新しい歴史が出発することによって創造される新しい事情圏環境圏を把握するに応じて為されるものだろう。何処の誰が、先天時代と同じ事情圏環境圏が変わらないものとして存在し続けるのに、誰からも揶揄され白い目で見られ、カルトの一つに括られてしまう統一教会員になりたいと思うだろうか。世界も社会も確実に変革している。そしてその変革は紆余曲折を辿るとしても真の父母を中心とする人類一家族思想へと向かっているのもまた確実だ。統一食口は世界と社会の変革にどう着いて行ったらいいのか、対処したらいいのか翻弄されているけれども、本来は地上天国の環境創造の為の変革であるはずで、グローバル社会もインターネット社会も創造理想を知る私達がリードしていくべきだ。確かに今の時代を担う若者は新しいツールに対して順応性もあり更に新しいプログラムを創るのにも創造的だ。若い者には適わないと時代遅れの器を嘆くのではなく、彼等以上に、彼等を越えた位置で、概念を提示し価値創造を為す私達であるべきだ。私達は新しい歴史の開拓者だ。真の愛の血統圏に属する者がどれほどの価値創造を為していくか、人類が驚嘆の目で私達を見る時が必ず来る。いや、来させなければ戴いた祝福を腐らせた者になってしまう。

2014年7月9日水曜日

今日の想い 763

アメリカでは今、聖地巡礼ツアーが行われている。御聖和2周年に向けて、御父様が決定された聖地を巡礼することで悔い改めて原点に立って仕切り直すことだと思っている。外的には全員参加は無理だとしても、内的には必ず全員参加して悔い改めと再出発する必要があるだろう。内的な聖地巡礼は記憶として残っている御父様との因縁巡礼だ。御父様との内的出会いをひとつひとつ思い起こしながら、その出会いの時の心情に立ち返るということだ。御母様は、「清平役事は天が聖別して育ててこられた大母様の特別権限であるので、あれこれと言ってはなりません。」と言われた。私達はあまりにも外的に、より外的に物事を見て判断してしまう堕落的習性が、雑草のように生えてしまったらしい。外的な観を立ててしまい、その観の上に立って更なる外的な観を立てていく。そうしながらアダムとエバが自己を中心とした自己判断に陥ったように、知らないうちに堕落的習性を堕落的とも思わない自分になってしまっている。外的な私を主体に置いて外的な状況を見るのか、あるいは内的な私を主体に置いて内的な状況を先ず見るのか、それで私の立ち位置は180度異なる。内的な私を主体に置くとは、内的な私が中心となる。内的な私が中心となれば、外的な私が外的な状況を見るのと異なり、外的な私からいうと外的な状況を裏側から見るということになる。そうやって内的霊的目を用意する者だけが霊的事実に近付ける。目は外に外に向けるのではなく、内に内に向けなければならない。ああだこうだと言うなと言われる御母様は生きた聖霊実体の御母様であられ、神様の一人娘であられ、御父様を天宙の勝利者として産まれた御母様であられ、私達の真の御母様だ。御母様の言われた言葉に対して真だ偽りだと判断すること自体、御母様を真の御母様とは認めていない。御父様が聖和されて既に全てが終わったかのように、それは悪い意味で終わったと捉える者も良い意味で終わったと捉える者も同じように御父母様の願いに立ってはいない。私達は為すべき何事も終えてはいない。何事も終えてはいないのに何が終わったと思っていい加減な生活を営んでいるのだろう。蕩減条件を幾重にも幾重にも積み重ねてきた自負があるなら、基元節を越えた今こそ打って出るべきだろう。生命を投げ打って新しい歴史の環境創造に馳せ参ずるべきだろう。今の時を味方につけるなら、本当に味方につけるなら、外的な位置に立てばあり得ないと思える氏族メシヤ使命完結も、南北統一も、世界復帰も為し得て余りあるだろう。この世からして見れば所詮気の狂った群れだ。気の狂った群れで上等だ。更に気が狂ってこそ真人となり得る。気が狂いでもして前進する者でなければ統一食口ではない。

2014年7月7日月曜日

妄想だと思われても、、。

時間だけは異常な速さで過ぎていく。あれはどうしよう、これはどうしようと思いあぐねているうちに、時間は容赦なく過ぎ去っていく。まさしく取り返しのつかない一刻一刻の時間を垂れ流しにしている。もはやこの時間の急流を堰き止めることも、緩やかにすることも誰もできない。人が死に向かって突き進んでいるという自覚を煽るが如くに、今の時代は先天時代を葬るために、過去に通用していた策略の全ては時間の急流にかき消されて意味を為さない。良かれと思った手段が一歩先に進むと、次々と現れては消える新しい状況に対処しきれない。だからといってままよと何もせずにおれば確実に淘汰されてしまうだろう。洪水に押し流されるこの状況で、様々な障害物に叩きつけられてしまう自分を生かす為には、死生決断しかありえない。いつ犠牲の藻屑となって波間に消えようとも、消えるも何も時間の流れと自分は一体だという見地に立てれば、時間の流れが私を目的地に連れて行ってくれるはずだ。私自身が時間の流れになればいい。それこそが死生決断だ。時間の流れに同参して、時間の流れの最先端に位置付ける私になれば、一瞬先を制する私になれるだろう。天の父母様が時空を越えた御方であられる意味は、時空を制する存在を従える位置に立っておられるということだ。私が時間の流れの中に生きているという認識から、私は時間の流れと共に生きているという認識、さらに、時間を制する存在は同じ兄弟であり同胞だと認識できるほどに意識を高められれば、私は三大王権の過去、現在、未来の王の、現在の王権への道が開ける。御父様が使われた王や王権という言葉を、何処か異次元の世界の言葉と思っていたけれども、時間の流れに翻弄される状況下で始めてその言葉が私の中に浮上してくる。時間の流れが心魂への気付きを与え、心魂が知情意のある段階に留まり続ければ時間の流れが制裁を与え、時間の流れが心魂を癒してもくれる。私が時間の兄弟になれるとすれば、気付きを与える時間の叡智を知ろうとし、怠惰な私を叱咤する時間の意志を知ろうとし、癒しを与える時間の情を知ろうとするところに、時間の本質からくるところの時間の人格性を感じることができれば、時間を我が友だと言うこともできるだろう。これがおかしな言い方に聞こえるとしても、私達の時間や空間に対する概念は99%機械的であり、それは霊的なものを無視した唯物観的な概念形成から来ている。それは太陽系や銀河系を機械的に理解しているのと同じことだ。霊的見地に立つならば、妄想的だと言われようともそこに人格性を見出すのでなければ、唯物観を壊して霊的事実に立つ私を取り戻すことはできない。霊的見地に立てる人は、より詩人でありより芸術的な捉え方ができる人だ。

2014年7月5日土曜日

今日の想い 762

ハリケーンが東海岸に沿って北上しているせいだろう。空を流れる千切れ雲が異様に早い。かと言って雲の量が増すでもなく、真綿のような白い雲が汚れて濁っていく様子もない。建国記念日は通年のように店を閉めてゆっくりしている。長く働いている従業員から近くのカジノに行こうと誘いも受けたけれども、人ごみの中に妻を連れていく訳にもいかず、それには断りを入れて、呼び寄せて手伝ってくれている兄弟のアパートに残り物の食材を抱えて行った。妻も連れていったが妻にしては始めてで、興味深そうにあちこち眺めていた。その兄弟は30年前、今の店の立ち上げに関わった功労者だ。人事であちこちに移動して最終的にバーモントに落ち着いて店をやっていたが、リースを終えた為に店を売り、それで浮いていた彼を元の古巣に呼び寄せた。4人の子供のうち下のふたりとはまだ一緒に住んでいたが、それでも子供達を置いて私の呼びかけに応えて来てくれた。相対者を8年前に事故でなくしている。私がせがんだせいもあったけれども、本当のところ彼がそうまでして来てくれた胸の内を私はわかってはいない。生活の為ではないし老後の為の蓄えをするほどの給料も切ってはいない。レストラン摂理として同じ頃アメリカに来たが、最後の御奉公だという想いがあるのも、相対者が眠っているワシントンのセメタリーに近いからというのも頷ける理由だとは思ったが、本当のところはわからない。私は病の妻を抱えてここまできたけれども、彼は唐突に妻を亡くしてここまできた。私の家庭は祝福家庭としての体を為していないけれども、彼の子供達はしっかりと信仰に根ざし、離れ離れになってはいても祝福家庭として一体家庭だ。確かに長男はマサチューセッツに、長女は西海岸にと、アメリカ全域に分散しているだけでなく、妻を亡くして霊界にまで分散している。私の事情圏環境圏と彼のそれとは或る意味真逆だ。実際十分年取った彼を呼び寄せて戦力になるとは思わなかったが、そんな表面的に考えること以上に大切な意味があることを知っている。そこまで知っていて呼び寄せたというより、私が霊界から押されてそうなっていると言った方が正しい。私と彼がひとつになって、この店が、このレストラン摂理が、どう変貌し、新しい次元で環境創造されていくのかは未だにわからない。しかし何かが胎動している。そしてその息衝きを大きくさせて育てるのも、逆に殺すのも、私と彼の一体化にかかっている。早い食事をして、歓談して、パイプ椅子をいくらか倒してよっかかり、青い空の白い雲の流れを見るともなしに見ている。来週になるとまた従業員がひとり抜ける。雲の流れを見ながらそんなことだけを考えている。その穴埋めのことばかりに意識を使っている私のままでは、新しい次元の新しい環境創造にはそぐわないのかも知れない。困難な状況に隠れるように、それと同時に新しい生命が躍動し始める。店の発展を見るなら、大きな発展の転機は確実に困難な状況下に起こっている。しかし今までのそれとは次元の違う大きな転機が、今の今であることは間違いない。その確信はあるものの未だに見通せない。どうしても見通せない。