2014年10月28日火曜日
今日の想い 804
原理を知って霊界について知るのはいいが、霊界に行けば自動的に永生するものと思っている。はっきり言って誤解だ。真の愛に繋がってこそ永生論理は立つのであり、死んであの世に行けば誰でも(どんな霊でも)そのまま永生する訳ではない。では真の愛に繋がらず死ねばどうなるのか。霊界に於いても死を経験する。地獄で永生を希望しないからだ。良心的に生きれば確かに中間霊界には留まるが、しかしそこで永生するのでもなく永生したい訳でもない。それは愛をまともに呼吸できない苦しさから、愛の呼吸器官を準備する為に再度の地上生を生きて霊的器官を得たいからだ。その苦しい感覚を地上で例えるなら、負債の大きさに心が苦しいといった感覚を数倍化したものを想像するといい。霊界に行けばみ言葉の審判、愛の審判、心情の審判があるが、み言葉を正しく受肉しなければ霊界で存在する足場がない。自己中心の愛、偽りの愛に生きれば霊界の呼吸が難しくなる。神様の心情を体恤しなければ霊界の光を受け取れない。光を受け取ろうとしても焼け焦げるからだ。結局足場もなく息も絶え絶えの陽の光の届かないところ、地獄に留まらざるを得ない。しかしそこで永生するとなると救いは永久に存在しない。よって地上の死があるように霊界の死がある。霊界の死をもって再び地上に生まれなければならない。この論理が原理と相反するか。それは生という概念を正しく捉えているかどうかに依っている。この地上で生と思っている生の観念で霊的な生を捉えている。永生が霊的な生に関して言われているのは明白で、それは誰であっても地上の生には限りがあるからだ。しかし限りのある地上の生と同じ感覚を霊的な生について考えるときも当て嵌めている。上に記した、「真の愛に繋がってこそ永生論理は立つ」とのみ言葉があるように、そのようにはっきりと語られているから、であれば逆の言い方、真の愛に繋がらなければ永生論理は立たないと言う言い方も正しくなる。御父様は霊界について多くのみ言葉を語られているが、私達の感覚だと誰であっても地上の生を終えて行くところが霊界で、地獄も含めて霊界だと理解しているが、おそらく御父様が永生する霊界という言葉を使われる場合、地獄は霊界とは捉えてはおられない節がある。さらに中間霊界も含まれてはいない。地獄は真の愛が届かず、中間霊界は真の愛に繋がりきれず、そうなると地獄も中間霊界も永生論理は立たない。地獄も中間霊界も、さらに言えば楽園さえも永生論理は立たない(のかも知れない)。真の愛に繋がる永生論理が立たないからこそイエス様は再臨が必要だった。再度の地上生が必要だった。御父様がイエス様の使命を受け継いだということは、楽園を不在(霊界の死を経験)されて再臨されたイエス様の地上生を勝利する為に生きた期間があるということであり、霊人達の再臨協助という内容は、霊界に足場を置いて地上の協助相手に何かを届けるというより、霊界の死を経験して再度の、或いは再々度の地上生を私と共に生きていると言える。それは生まれては死に、死んでは生まれるという流れ溜りで枯葉が回転し続ける輪廻転生的な地上生だったものから、再臨協助して高次への縦的段階を上って天国人になる為の再臨地上生になったと言うことだ。
2014年10月25日土曜日
今日の想い 803 (氏族復帰)
御母様が私達に伝えるキーワードのひとつは環境創造という言葉で、2020年までの摂理を勝利する為の最重要課題であり、地に足がついていない食口達の意識が目覚めて活動する喫緊の課題と言えよう。氏族復帰は私達の宿命的課題であり、その氏族復帰を為す為には復帰できる環境を整えなければならない。氏族復帰と言われて、あの兄弟をみ言葉に繋げよう、あの叔父さんは意識があるみたいだからみ言葉を伝えて見よう、みたいな感覚でいるけれども、それが本当に氏族復帰なのかどうなのか。先ず氏族メシヤ宣言をすべきであり、それ以前に氏族メシヤ宣言をする環境を整えなければ宣言できる訳がない。集まろうと声をかければ、ある程度の親戚縁者を集めることができる力があるのかどうかという話だ。経済的基盤もない、それなりの地位や名誉もなければ氏族復帰など夢のまた夢だ。摂理は摂理で、私の内的課題を乗り越えながら天国に近付いて行く家庭中心の信仰生活とは別の事と内心思っている節がないだろうか。正直を言えば私の中にはそれがある。それがあるから氏族復帰が進まないとしても安堵しておられる。ここに一つのみ言葉があって、
「ここには一つの秘法があります。統一教会の教会員である皆さんが勝利的基盤を築かなければなりません。そのようにしてこそ父母の立場に立つことができます。」天聖経、地上生活と霊界、第2章21節より、、とある。
全文を載せると長いので最後だけにしたが、このみ言葉の最初の内容を要約すると、統一教会の信仰をしていても天法に引っ掛かれば天国に行けず無駄になってしまう。だからどうすればいいのかと言うことで上に記した一つの秘法を提示して下さっている。確かに私達は恩赦を何度か戴いたけれども、赦されたはしから引っ掛かる生を送ってしまうのが完全復帰されていない私達の性(さが)だ。そうなるとこの秘法を用いざるを得ない。それが勝利的基盤であり、それこそが環境創造と言えるのではないだろうか。食口はこの世的欲がなく、清貧に準ずることを良しとしている訳ではないが、結果的にそうなっている。しかし清貧のままではどうにも勝利的基盤、環境創造にはならない。私達はどうしても経済的成功、それなりの地位も名誉も得てこそ勝利的基盤、環境創造と言える。ある程度の成功者にならなければ誰も、氏族の誰であっても見向きもしないからだ。だから私達は欲で成功者になるのではなく、摂理的観点、氏族復帰観点から成功者にならなければならない。ヤコブが一財産築いてエサウが屈服したように、ヨセフが一国の大臣になって他の兄弟達が屈服したように、本来ホームチャーチ摂理でカイン圏復帰を為して氏族復帰という流れになる訳だが、み言葉を伝えて行くカイン圏復帰が難しければカイン圏に於いて成功者になってこそ氏族が一目置くという、その具体的摂理進展を進めなければ氏族復帰を御題目のように唱えても何にもならない。よく言えばあまりにも純粋、悪く言えば単純馬鹿な食口の在り様から、この世を料理する程の知恵者にならなければ摂理の進展など覚束ない。蛇のように賢く、というかそれがずる賢さであっても無いよりはましだと思うのだがどうだろうか。この秘法をどう捉えるかにもよるが、責任者の公金に対する問題、あるいは地位を使って親戚縁者を優遇する問題など無いとは言えない。無いとは言えないけれど、そのずる賢さで氏族が一目置く位置に立ち、氏族復帰の基盤の一助とするなら御父様はどう対処されるだろうか。お前は天法に引っ掛かったからと無碍に地獄に突き落とされるだろうか。あるいはこの秘法を使ったのかと配慮されるだろうか。仮に公金問題をいうなら、一ドルであっても一億ドルであっても横領すれば公金問題として引っ掛かる。霊的には(天法では)その量によって采配されるものだと思わない方がいい。
「ここには一つの秘法があります。統一教会の教会員である皆さんが勝利的基盤を築かなければなりません。そのようにしてこそ父母の立場に立つことができます。」天聖経、地上生活と霊界、第2章21節より、、とある。
全文を載せると長いので最後だけにしたが、このみ言葉の最初の内容を要約すると、統一教会の信仰をしていても天法に引っ掛かれば天国に行けず無駄になってしまう。だからどうすればいいのかと言うことで上に記した一つの秘法を提示して下さっている。確かに私達は恩赦を何度か戴いたけれども、赦されたはしから引っ掛かる生を送ってしまうのが完全復帰されていない私達の性(さが)だ。そうなるとこの秘法を用いざるを得ない。それが勝利的基盤であり、それこそが環境創造と言えるのではないだろうか。食口はこの世的欲がなく、清貧に準ずることを良しとしている訳ではないが、結果的にそうなっている。しかし清貧のままではどうにも勝利的基盤、環境創造にはならない。私達はどうしても経済的成功、それなりの地位も名誉も得てこそ勝利的基盤、環境創造と言える。ある程度の成功者にならなければ誰も、氏族の誰であっても見向きもしないからだ。だから私達は欲で成功者になるのではなく、摂理的観点、氏族復帰観点から成功者にならなければならない。ヤコブが一財産築いてエサウが屈服したように、ヨセフが一国の大臣になって他の兄弟達が屈服したように、本来ホームチャーチ摂理でカイン圏復帰を為して氏族復帰という流れになる訳だが、み言葉を伝えて行くカイン圏復帰が難しければカイン圏に於いて成功者になってこそ氏族が一目置くという、その具体的摂理進展を進めなければ氏族復帰を御題目のように唱えても何にもならない。よく言えばあまりにも純粋、悪く言えば単純馬鹿な食口の在り様から、この世を料理する程の知恵者にならなければ摂理の進展など覚束ない。蛇のように賢く、というかそれがずる賢さであっても無いよりはましだと思うのだがどうだろうか。この秘法をどう捉えるかにもよるが、責任者の公金に対する問題、あるいは地位を使って親戚縁者を優遇する問題など無いとは言えない。無いとは言えないけれど、そのずる賢さで氏族が一目置く位置に立ち、氏族復帰の基盤の一助とするなら御父様はどう対処されるだろうか。お前は天法に引っ掛かったからと無碍に地獄に突き落とされるだろうか。あるいはこの秘法を使ったのかと配慮されるだろうか。仮に公金問題をいうなら、一ドルであっても一億ドルであっても横領すれば公金問題として引っ掛かる。霊的には(天法では)その量によって采配されるものだと思わない方がいい。
2014年10月23日木曜日
今日の想い 802
「神様のすべての相続圏を受けられる特権を得る道は、愛の道だけです。真の愛をもった人が「私」の体をかすめて通り過ぎれば、喜ぶのであって、反抗しないのです。すべて歓迎します。天の国がそのようになっているので、地上でそのような訓練を受けなければなりません。」天聖経、地上生活と霊界、3章2節より、、
このみ言葉で素通りすべきでない箇所は、「体をかすめて通り過ぎる」という表現にある。それは一体どういうことだろうか。読む人が読めばピンとくる内容なのだが、食口は意外と堕落圏の倫理道徳=善とする観念が強いので、まさか御父様の口からそんな意味合いの言葉がでるはずはないという前提に立ってみ言葉を読み進める。「通り過ぎる」という箇所を素通りしてはならず、何度か意味合いを尋ねれば自ずと理解できるだろう。堕落圏から見れば浮気だと言って責め立てられることになる。御父様が複数の愛の関係を持たれたかどうかは別にして、パンと葡萄酒による新生ではなく、重生の為の三日儀式と聖酒式を見れば明らかだが、先ず御父様とその新婦となる立場の女性との関係、それから新婦となった女性と男性との関係、というプロセスを踏んでいる。真のアダムと関係を持って復帰されたエバとなり、復帰されたエバと関係を持つことで天使長が復帰される。それは只の形式ではなく本来は実際にそうすべきであって、しかし事実以上に慕い侍ることで事実として受け取る。本来は御父様の体がひとつであることに、そして限りがあることに嘆き悲しむほどでなければならない。そして御父様に見(まみ)えればひょっとしたら私の体をかすめて下さるかも知れないと、募る想いを抱かなければならない。女性食口はそうあるべきだ。聖和二周年の式典が終わったけれども、その式典の場で、どうして関係も持たずに逝かれたのですかと切々と恨みを訴えるほど慕う心情を吐露するのが本当の女性食口だ。前にも触れたように、堕落圏から見れば、女性食口は御父様の愛人であり、男性食口はお零れを下賜される杯を交わした義兄弟だ。よって女性食口は「私」の体を通り過ぎれば喜ぶのであって反抗せず、男性食口は御父様の愛人をあずかりながら交わした約束に命をかける。ここまで表現すると随分危険で突っ込まれどころ満載だと思うが、心情の体感的相続を考えると関係性が観念的なままだと相続するにも限界がある。
このみ言葉で素通りすべきでない箇所は、「体をかすめて通り過ぎる」という表現にある。それは一体どういうことだろうか。読む人が読めばピンとくる内容なのだが、食口は意外と堕落圏の倫理道徳=善とする観念が強いので、まさか御父様の口からそんな意味合いの言葉がでるはずはないという前提に立ってみ言葉を読み進める。「通り過ぎる」という箇所を素通りしてはならず、何度か意味合いを尋ねれば自ずと理解できるだろう。堕落圏から見れば浮気だと言って責め立てられることになる。御父様が複数の愛の関係を持たれたかどうかは別にして、パンと葡萄酒による新生ではなく、重生の為の三日儀式と聖酒式を見れば明らかだが、先ず御父様とその新婦となる立場の女性との関係、それから新婦となった女性と男性との関係、というプロセスを踏んでいる。真のアダムと関係を持って復帰されたエバとなり、復帰されたエバと関係を持つことで天使長が復帰される。それは只の形式ではなく本来は実際にそうすべきであって、しかし事実以上に慕い侍ることで事実として受け取る。本来は御父様の体がひとつであることに、そして限りがあることに嘆き悲しむほどでなければならない。そして御父様に見(まみ)えればひょっとしたら私の体をかすめて下さるかも知れないと、募る想いを抱かなければならない。女性食口はそうあるべきだ。聖和二周年の式典が終わったけれども、その式典の場で、どうして関係も持たずに逝かれたのですかと切々と恨みを訴えるほど慕う心情を吐露するのが本当の女性食口だ。前にも触れたように、堕落圏から見れば、女性食口は御父様の愛人であり、男性食口はお零れを下賜される杯を交わした義兄弟だ。よって女性食口は「私」の体を通り過ぎれば喜ぶのであって反抗せず、男性食口は御父様の愛人をあずかりながら交わした約束に命をかける。ここまで表現すると随分危険で突っ込まれどころ満載だと思うが、心情の体感的相続を考えると関係性が観念的なままだと相続するにも限界がある。
2014年10月21日火曜日
今日の想い 801 (理想と希望)
どんな状況であれ、希望的なものを見出しながら、希望的未来から見れば過去である現在に、希望的未来に生きる感情を引き戻して喜びを感じる。そのように喜びは今を喜ぶ以上に未来を見据えて喜びを覚えるようになりたい。具体的なことを言えば、願う状況をありありと想起できてこそ先ず感情に於いて現実化し、そして生活の中の現実となる。それは言うのは簡単だけれども決して容易いことではないし、現状から逃げ出すことでもない。精神的存在である人間の精神的霊的創造だ。現段階の人間は万物を置き変えたり繋げたりして新たに創ることはできても、万物そのものを創造することはできない。しかし精神的霊的創造をすることで、その引力で万物や元素を引き寄せることはできる。人間は感情を持った動物の位置からは縦的段階を上っていって理想のある神様に向かっていく。つまり喜びを得たいという位置から希望を見出そうとし、希望を見出そうとする位置から理想とは何かを尋ねる。現実から理想を尋ねていくのではなく、それとは異なり、先ず理想を提示して理想の具現を現実に見ようとするのが本来の宗教の使命だ。しかしいきなり理想を提示されても現実が堕落圏にある以上理想の概念は到底受け取れない。しかし高次から低次へ、より理想に近い位置から現実へという、逆の流れを用意できると神様の理想を捉えやすくなる。み言葉の本質を受け取ることは簡単ではない。しかしみ言葉の理解がどれほど稚拙なものであっても、高次から低次へというベクトルを用意することで希望的未来に生きるようになる。堕落圏の希望ではなく理想からくる希望に生きるようになる。神様の理想があり、そして希望があり、そして喜びがある。多くの人間は理想も希望も喜びも平面的であり同じ意味合いでしか捉えていない。しかしみ言葉に立てば理想と希望の立体的違いを明確に理解し、当然のように見ることができ、よって当然のように現実化する。理想は神にあり、希望は未来人間にあり、喜びは現在人間にあり、創造結果は過去人間にある。創造結果、或いは堕落結果に埋もれて生きれば過去人間であり、喜びに生きれば現在人間であり、希望に生きれば未来人間であり、理想に生きれば神の領域(位相)に立つ。
2014年10月19日日曜日
今日の想い 800
霊とは無縁のところで活動し生活しているように思えるけれども、すべての現実は霊界で起こっていることの表象であって、その現実を通しながら背後の霊の活動を見通すことが必要だ。それはいかにも特別の技術を要するように思えるが、実は技術というより想いを供えることで相通じるものがあって、そこでやり取りされるものこそ愛の霊素だ。生霊要素と表現していいと思う。私達が通常愛としている愛は表面的なもので、愛と真の愛との違い、表面的通常の愛とその愛を愛と為さしめる根源の愛、本質的霊的愛との違いを分からなければ、真の愛の概念に近付けないしは受け取れない。真の愛の概念を受け取った者は背後の霊の活動を手に取るように見通す。能動的に自分の意志をして愛する、愛を与える、為に生きる者でなければ真の愛の概念を受け取ることはできない。私達の問題はみ言葉を言葉としてのみ受け取っているので、実に受け取り方が観念的であるということだ。しかし生きて生活するのは観念的ではなく現実なので、み言葉をどれほど勉強しようとも言葉から実生活に落とし込まなければ観念的なままであり抽象的な愛と信仰生活に留まるしかない。殆どの人は職場という環境の中で多くの時間を費やすが、この時間とそして職場というスペースをどれだけ自分の想いで満たそうとしているか。精誠を供えるという素晴らしい言葉を私達は持っているけれども、精誠を供えるには時間的な側面と空間的な側面が必要であり、分けて行動できる訳ではないが、時間に刻みこむ精誠と愛、空間に落とし込む精誠と愛を意識的に為してこそ、時間の神霊と場の神霊が共にいて背後の霊の活動に働きかける。御父様は1秒の違いで様変わりする霊的環境を見通しておられ、宣布や儀式、あるいは通常の訓読会に於いても何分何秒に至るまでこだわられた。また場所場所によって異なる霊的環境も見通され、よって世界聖地の決定もされたのであり、また、いつも急に思い立ったように移動され行動された。御父様は時間の神霊と場の神霊を把握しておられた。真の愛こそが全てに通じ、真の愛の光で数千数万年前の過去にも、或いは未来にも照射して見通せる。真の愛の光で地球のどこにも、宇宙の果てにでも照射して見通せる。背後の霊的背景を見通しながら、それらの霊と真の父母との関わりは私を通して為されるのであって、彼等の霊的復活は私を通して真の父母から来る真の愛で為される。願われる御父母様がおられ願いを受ける私がいるという観念だけでは私を中心とする摂理は一向に進まない。地上に実りを見ようとすれば霊界の協助は必然であって、救いを受けたいあらゆる霊達の叫びを感じつつも、彼等の功績は必ず天に繋げるという霊達の信頼を得てこそ彼等の協助は生活圏に入り実を実らすまでになる。ようするに結果を残す為には天と私の関係だけに留まっていてはならず、一方で天の願いがあり、一方で霊達の復活と救いへの渇望があり、その仲保である私を確立することで結果を残せる。
2014年10月11日土曜日
今日の想い 799
私は死に対して、期待感はあっても恐怖感は全くない。しかし霊に対する恐怖感はある。勿論生きて為す使命があるから、道半ばで逝くということになると悔いはあるとしても、しかしそれは恐怖感ではない。霊界が存在するという認識を持つということは、恐怖感は軽減されるけれども恐怖感が全くなくなる訳ではない。恐怖感が失せたのではなく、霊界があると信じることで恐怖感を見ないようにしているだけだ。私は霊界を信じるのを越えて、地上で生活感をもって生きているように霊的生活感もある。もちろん私の霊的五官は肉的五官のように冴えわたってはいないので、曖昧で未だ鈍感ではあるけれども、それでも霊的見地に立てば大きく対処を間違えるほど暗くは無い。ここアメリカに住んで生活していると霊は随分とあっさりしたものだが、日本に帰ると途端に霊の存在を強く感じる。その存在が心地よい部分もあるし、また煩わしく重い部分もあるとは言えるのだが、、。そしてさらに故郷である田舎に帰ると、霊が忽ち押し寄せてきて恐怖感として現れる。それは地域的なものというより、ある程度の霊的感性を備えて生まれた私、使命を担った私に霊達がすがりつくことで、背負っている重荷を引き受けて欲しいと依ってくるからだ。その恐怖感は小さな子供の時分からあって、それ故に追い詰められて精神を病んでしまいそうにもなり、ひたすら故郷から逃げ出したかった。高校は広島まで出て、月3500円のあばら家アパート住まいをしたが、田舎に比べれば、あの蕩減の重い広島が随分軽く思えるほどだった。そして、距離的には逃げに逃げて、ついに地球の裏側までやってきた。しかし、距離は遠くにあっても、あの郷里に行けば重くのしかかってくる霊達の解放に対して責任がない訳ではない。田舎では臥竜の山が里を見下ろしている。事件が起きるまで、まさかこのなだらかな山が舞台になるとは思ってもいなかったが、現実のものとなった。表面上はこの山のようになだらかな故郷の毎日がずっと続くと思っていたが、感じていた恐怖感が現実化した。地球の裏側にいてもそのニュースは即座に飛び込んできた。モレブ山のイサクの献祭は父子の一体化で避けられたけれども、臥竜の山は犠牲が現実のものとなり無残な形で供えられた。山は頭や胴体の切断された犠牲の血で染められてしまった。この地が故郷である私の使命は霊視して犯人捜しに一役を担うことではない。現実となった霊的背景を受け止めて鎮魂することだ。そして霊の解放だ。2009年11月6日に発見されたが犠牲者は10月26日から行方不明だった。となると2週間近くは発見されぬまま転がっていたことになる。5年経った今でも、その日が近付いてくるとその事件が想起される。この事件を知ることになった時、故郷で感じていたあの恐怖感が即座に蘇えった。実は勘違いしたことがあって、恐怖感は恐怖を与える霊の存在に囲まれているからだと思っていたが、事実は恐怖を感じている霊だから共鳴して同じように恐怖感を覚えたということだ。この霊達を救わない限り、故郷に足を踏み入れて氏族メシヤだ復帰だなどと口にすることすらおこがましい。もちろん犠牲となった女性も浮かばれない。
2014年10月9日木曜日
今日の想い 798
教会にとってある子女様の行動が問題視されたとき、先回記した、「愛が愛らしく」という言葉が先ず私の中に想起された。子女様の行動は教会の規律どころか原理原則さえも越えて、自分の愛を全うすべく行動に出られた。その行動は食口の誰もが批難し、たとえ子女様とてこの行動は御父母様の願いに反すると誰もが思った。もちろん私もその一人だ。しかし私にはその行動が、「愛が愛らしい」と思える愛の行動だと、それは批難が増せば増すほどにその愛は光を増すと思われた。一方で首を傾げ批難の言葉も思い浮かんだが、しかし一方では愛だ愛だと口にしながら、教条的で死んだ愛としか思えない愛の抜け殻が幅を利かせている中で、唯一、というか目を覚まさせるような愛らしい愛を子女様の行動に見た思いがした。愛が、原理原則の権威への恐れから、或る意味行儀良い愛、安全な愛となり、それもまた愛の姿ではあるのかも知れないが、「愛が愛らしく」という表現には愛の観念を覆し、リスクを負うような愛の行動、愛の姿も否定されずあってこそその表現が成立すると私には思われて、清々しい気持ちもあったことは確かだ。残っておられた二人の御子女様の祝福に対しても随分批難している者達がいるが、多くは御父母様を否定し教会に反発する者達の批難であって耳を傾ける必要もないのだが、それでも今までの祝福状況とは異なるので食口の中にも少なからず波風が立ったことはそうだ。恋愛結婚で祝福の伝統は守られるのだろうかと心配する者や、私のように随分祝福の門が大きく広がって喜ぶ者やいろいろだろう。しか祝福は祝福だ。たとえ今までの基準を問うことはなくなっても、それでも祝福だ。御父母様が許可し、責任を取るから祝福であって、受ける側がどうこう疑問を呈する問題ではない。これで間違いなく二世達の祝福は増すのであり、祝福の世界化も一気に広がっていく。それがどれだけ喜ばしく有難いことだろうか。御父母様は確かに人類の御父母様だと再確認できて、讃美の声を張り上げたいほどに嬉しかった。祝福に依らなければ霊肉の救いはない。祝福の門が広がったことは救いの門も広がった訳で、御父母様の勝利圏による人類の救いを地上で、そしてこの目で見届けることができる。先の御子女様の懸案について御母様から言及されたことは未だない。いや、何も聞いていないのでないと思っている。それでも真の御家庭のことであるし、後々には何らかの御言葉があると思っているが、それもない間に責任の無い立場で好き勝手なことを口にすべきではないだろう。それでも私個人にとっては、愛の統一教会でありながら愛の臭いも香りもしないと長い間感じていたが、批難も甘受し霊的生命の危険さえも犯して愛に生きる御子女様の大胆さは、愛が実に愛らしくなってきたと思える大きな出来事だった。断わっておくと、私は好意的には感じているけれども、それを善だとも悪だとも誰かのように判断はしていない。暑く激しい愛の呼吸をその子女様に見ているだけだ。
2014年10月8日水曜日
今日の想い 797
愛が愛らしく存在するために、という説明が原理の力より愛の力が強いものである理由として記されている。本来原理で創造された人間は愛で主管される。原理で主管されるものであれば人間の自由性など存在しない。愛で主管されるから自由性が存在するようになる。愛が愛らしくという言い方には愛によって原理をも曲げてしまう、という、愛の原理に対する主管性、自由性を謳っている。堕落は当然、原理の力によるベクトルに愛の力が横から無理押しされて生じたものだ。論理的で機械に見るような無表情な表現で一貫されている風な原理だが、堕落論に記されているこの表現に触れた時、私の原理に対するイメージは大きく変わった。原理原則の機械的なものが根源にあるのではなく、言い方は不埒だが愛の秘密性が根源にあったという安堵だろうか。それは堕落した男女の愛の秘密性のみならず父子の間の愛の秘密性でもある。私に取っての堕落論は読めば読むほどに、歴史的秘密にされていたエデンの園での神様とルーシェルの愛の駆け引き、エバという愛の果実の奪い合いの一大叙事詩が繰り広げられ、それぞれの息遣いが論理的言葉から溢れ出し圧倒される。堕落論の中に入ると、愛の貴さも、愛の穢れも、そして愛の秘密性と愛の独占、さらに愛による主管や愛の自由性、甘い愛であったり苦い愛であったり、ありとあらゆる愛のイメージが広がっていく。そういったイメージが本然的なものだけではないことはわかっているが、だからこそ「愛が愛らしく」という言葉が成立すると思っている。人類の内的霊的進化に芸術の果たした役割は大きかったけれども、それは善を表現したものだけではなく、触れさせたくないようなものを表現したものもまた逆説的に進化に寄与している。芸術は愛の申し子だから「愛が愛らしく」あるように芸術もまた芸術らしくある。私達が愛という言葉を使う時、愛らしいと言えるような愛の観念を抱いているだろうか。何々しなければならない、為に生きなければならないと言うような、戒律的な観念が私達の中にある以上、蕩減時代を越えて愛の自由性の中で、愛の呼吸をするような愛の存在とはなっていないだろう。愛とは名ばかりの、愛という名の心魂の牢獄から解放されて、東西南北の愛の呼吸、春夏秋冬の愛の呼吸、暖かい包み込む愛も呼吸し、涼しい癒しの愛も呼吸し、暑く燃える愛も呼吸し、冷たく厳しい愛も呼吸する、そんな愛の自由人になってこそ私は真の愛の国の住人になることができる。
今日の想い 796
一度は御父様を慕い侍った過去があったろうに、それも全てを捧げて搾り取るほどに投入しただろうに、その反動からか御父様と教会を責めるその言葉には呪いの毒気さえ見て取れる。彼等の発信は青春を返せと叫んだような恨み事なのだろうか、それにしては目覚めた(?)ことが誇らしそうでもあるし、或いは騙され続けている食口達を目覚めさせようとしているのか、そうであるなら馬鹿にしたような随分な上から目線では余計に頑なになるだろうことは想像にかたくないと思えるのだがどうだろうか。結局は糞尿をあたりかまわず撒き散らし、知らないうちに自分も被ってしまうというその程度の存在にまで自分を貶めている。発信すること自体に意志を傾けていて、教会の飯を口にした時があったからたまたま記す材料に事欠かない教会のことを書き連ねているに過ぎない。発信することで私は存在しているという自己アピールをしたいのは良くわかる。私も同じだからだ。しかし言葉というものは恐ろしいもので、口にしたそれを条件として霊がそこに居座るようになる。そして霊が霊を呼んで拍車をかけた言葉を口にするようになる。記すという言葉を残す作業には更なる霊の実質化が加速される。それは善霊であっても悪霊であっても同じことだ。善霊はさらなる善霊を呼び、悪霊はさらなる悪霊を呼ぶようになる。ネットがツールとなって簡単に発信することができるようになったからその影響は大きい。自分が発信し始めた当時の記事内容と今のそれとを読み比べて見ると良くわかるはずだ。利口になったか?おそらく利己にはなってきたのかも知れない。先天時代は利口がサタンの武器だったから知恵がつけばつくほどにサタン的活動に懐柔されてきた。俗に言う頭がいい者ほど共産主義にのめり込んでいった。言葉はそれほどに恐ろしく、或る意味魔術的で、霊的に見れば言葉を使うことは黒魔術にもなり白魔術にもなる。こんな言い方もおそらく妄想食口でかたずけられてしまうのはわかっていて、反対派から妄想呼ばわりされるほどに認識して戴いたことはブロガ―冥利に尽きるけれども、彼等の半端ないこれからの蕩減内容を思うと心が重い。彼等の中には知ってか知らずか神様の愛が絶対的であるなら赦しも絶対的であると暗に踏んでいて、敢えて御父様を刺激し現役食口を焚きつける者もいる。ちょうど天使長ルーシェルが同じ道理で神様に挑戦状を叩きつけた如くにだ。しかし愛と赦しを期待する以上、愛と赦しを身を持って、或いは血統を持って体験する過程を通過しなければ期待する愛と赦しの実感的概念も備わらない。騙したことに対する赦しは、等価からそれ以上に騙されて騙した相手の心情に通じてこそのものであって、それを蕩減というのであり、その過酷さを知るから良心作用が働く。人間に最初から自由性が与えられたのはそれ故にアダムとエバが堕落したことからして明らかだ。自由性は責任が伴うのであり、責任が伴うからこそ過酷な蕩減内容を人間は負う。頭のいい彼等にその理屈がわからないとは思わないのだがどうしてだろうか。恐ろしい神様であるという認識がないらしく、何でも許してくれる神様だという妄想に取りつかれている。彼等は私を妄想食口と呼ぶが、私に言わせれば彼等こそ妄想の中の妄想に住んでいる。
2014年10月6日月曜日
今日の想い 795
食口の多くはクリスチャンではなかった。だから再臨のメシヤという概念と彼を待ち望む感覚は原理を受け入れることでの受け売りでしかない。あたかも再臨主を待ち望んでいたかのような錯覚を覚え、たとえ御父様こそ再臨主だと信じるとしても、原理を聞いて初めて再臨主の言葉の意味を知ったのであり、よって概念までは受け取れずに錯覚の域を脱しない。再臨主への思いが錯覚であればメシヤ信仰も錯覚だ。み旨を歩む過程でどれほどの者が錯覚から信仰の本質に目覚めただろうか。再臨主という概念は聖書を生命視し、クリスチャンとしての信仰路程を歩んでこそ再臨主の概念が備わる。それでは真の父母という概念は私達の中にあるだろうか。父母という概念は世界人類共通のものであり、父母という概念が備わっていればそこから真の父母という概念への道もある。しかし真の父母の概念は偽りの父母があるからで、真の父母の概念を取り出す為には偽りの父母、即ち偽りの父母からでた堕落した存在であることを理解しなければ真の父母の概念は探し出せない。罪を自覚すればするほどに救いへの渇望があるわけで、偽りの父母に対する認識があればあるほど真の父母への認識が明確になる。クリスチャンとして再臨のメシヤを待ち望んだ立場でもなければ、偽りの父母から生まれ罪を引き継いでいるという堕落意識も薄ければ、私達はどのような御父母様として受け入れるのか。歴史的何の用意もされずにピックアップされた私達にとっての福音中の福音は「心情」という言葉だと私は思っている。心情の因縁によってこそ再臨主であり、真の父母であり、さらには万王の王であられる御父様と、何もわからない私達の関係性が確かなものになる。ユダヤ民族にとってイエス様がもたらした霊的で本質的な光は彼らの概念の辞書の中にはなかった。いわば律法に従わないイエス様の心魂しか見えず、より霊的本質的新しい光がもたらされ発するのに関しては盲目だった。クリスチャン達にとっての御父様も同じだった。彼らの再臨のイメージからは大きくずれていて、それ故に霊肉の救いをもたらし新しい世界をもたらすほどの高度の光、真の愛の光に対して盲目だった。私達の多くは心魂の光も、霊的光に対しても勿論盲目であったけれども、御父様の袖を掴んで離さず付き従ってきた。付き従ってきて価値もわからずに祝福を戴きみ旨に歩んできた訳だが、聖和されて掴む袖を失ってしまった。しかし掴む袖はなくしたとしても歩みの過程で受け取ったものがある。苦労に次ぐ苦労の連続であったけれども、苦労を通して心情を受け取った。神の心情を受け取った。真の愛の光を受け取れる目はこの心情にあるのであり、神様の心情を受け取ることで用意される。人類解放の祭物である統一食口を苦労に次ぐ苦労の塩で漬物にして、人間の霊的素材の本質が浮き彫りになってくる。私達の中には確実に真の愛の光を受け取る目が用意されている。真の愛の光の光源がどこにあるかを真の統一食口は見ることができ知っている。山羊族の食口は背を向けても、羊族の食口は真の光の光源を見て、知って、対して、受け取っている。
2014年10月2日木曜日
今日の想い 794
反対派はおろか本流に沿う者達の中にも、上に立つ者と下で支える者、指示を出す者と指示に従う者、さらには搾取する者と搾取される者、という構図の観念から抜け出せない者達がいる。連絡、指示だけなら上下意識は役に立つのかも知れないが、摂理が目まぐるしく変わっていくこともなくなり、それぞれの自主性、主体性が要求される状況になってくると上下意識だけで果たせるものではない。もちろん教会としても組織で動いてきたわけだし、今でも組織体制を崩せば依り代はなくなってしまう。しかし今の教会は上に示した構図の組織体制からは変わってきている。立てられた中心者を中心とするピラミッド体制によらなければ我々の存在を維持できないと信じているが、この世では既に会社存続するためには強固なピラミッド体制では無理があることを察して、柔軟ないつでも変容できる組織になってきている。特にネット空間を存在基盤とする新しい会社はその性質上からもそうならざるを得ない。外的世界の方が先んじて進化しており、その器の中に新しい内的世界、より理想的な内的在り様が住むようになるという、それは別に今に始まったことではない。体が先で心魂は後からだ。原理型の非原理社会が内的なものより先に政治経済に起こってきた。しかし旧態依然の世界観念から脱却できず、今の中心者を批難しながら新しい中心者に挿げ替えることでピラミッドの存続を図ろうとしている。どこまでもピラミッドから離れられない。教会が霊的柱を立ててそれに属するのではなく、それぞれの家庭で霊的柱を立てる必要がある。だから家庭教会であり家庭連合だ。そこには今までにはなかった自主性、主体性が求められるのであり、祝福中心家庭として宿命的な氏族復帰の命題を与えられている以上、中心者批判、教会批判をしているような暇はないはずだ。御父様は完成、完結、完了と言い残されて聖和された。それは御父様は使命は果たされたから後はあなた達の責任だ、と捉えるべきなのかも知れないが、私には私達子女に対しての真の父としての重大なメッセージだと思える。父であるなら残す子供に対して、ラクダが針の穴を通るほどに難しい宿命的課題が残っているにもかかわらず、そんな言葉を残されて旅立たれるだろうか。そうな呑気な独りよがりの御父様ではないはずで、御父様が「あなた達は既に御父母様の勝利内容を相続した」という確信がなければ、そんな言葉を残されるはずはない。或いは、霊界からどんな応援部隊を送ることもできるので必ず勝利するという御父様なりの確信があるはずだ。私達は未だに多くの為すべき事柄が残っていて途方に暮れるような心境だとしても、御父様には私達それぞれの将来的勝利を既に見ておられて、よって完成、完結、完了の言葉を残されたと思える。氏族復帰にしても、私は宣布するべきだけれども霊的な具体的活動は霊界の協助によるものであるし、霊界の協助は天の命令によるものであって、よって御父母様の勝利圏は私達の勝利を約束している。もし私達が古い革袋、すなわち旧来と同じように組織体制に寄りかかっている限りは、為すべきことも組織を通して受け取ることになるという、天との間接的関係しか持ち得ないが、後天開闢時代の新しい革袋、私と私の家庭が依り代となって天との直接的関係を持つことができるようになり、為すべきことが直に伝わるのであり、何をすべきかを刻々と判断できるようになるし、堕落することもなければ判断を誤ることもない。勝利への直近経路は照らし出されている。
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