2014年11月6日木曜日

今日の想い 805

南から8時間もかけて兄弟が訪ねてきた。休憩を入れずにドライブしても往復で半日以上かかってしまう。本当は来なければならない理由があったのだが、来て見たら手の平を返された格好になってしまった。それならそれで分かった時点で相手方が連絡してくれればいいのに、その辺が甘いというか常識に欠け、ふざけていると思われても仕方ない。食口と言われる私達の、今まで責任感情を覚えなくてもやってこれたという甘えがそこに見える。はるばる北上してきた彼は明日の営業に間に合うよう、とんぼ返りしなければならないので小一時間しか話せなかったが、向かい会って顔を見ながら話すのは電話ともスカイプとも違って内面に落とし込むものがあって実に良かった。御足労かけた彼には申し訳なかったけれども貴重な時間を持てた。お互い同じように店を任されてやっていて「いずこも同じ秋の夕暮れ」で、人手不足の為に苦労している。その為、今まで従業員に任せていてやっていなかった作業を最近また始めたようで、彼が言うには、心配だったけれども昔手にしたものは手がしっかりと覚えていて不自由なく作業がこなせたと話していた。思考は頭でするものと思っているけれども、彼が言うように実は手も思考し記憶する。ピアノコンクールで優勝した辻井青年の演奏に身を傾けると、盲目でありながら見事なラフマニノフを演奏して感動させてくれるのは、目に頼ることを越え、頭脳的思考経路を越えて、手が独立しているように手の記憶、手の感情、手の思考を通して高次の霊界が直接的に表現していることによるものだ。手がそうであるように足も記憶し思考する。目も耳も頭にとっては受け取る感覚器官に過ぎないのだが、目自体が、耳自体が、記憶するし思考する。頭で思考する限りは霊的感性を啓発するには程遠い道のりも、頭の縛りを解いてそれぞれの器官の記憶や思考を認識できるようになると、途端に霊的感性は冴えわたっていく。同じ景色を見るにしても人によって受け取り方は千差万別だ。それはそれぞれが無意識的に頭が見たいように見ているし、見たくないものは見ないからだ。しかし頭の縛りを越えて目自体の記憶と思考に頼り始めると、思ってもいなかった霊的存在が迫ってくる。もちろんだからと言って見せられたもの全てが真実だとは言えないし時として危険ではあるけれども、少なくとも堕落圏に束縛された頭からはいくらか解放されることになる。動植物の集合魂の記憶や感情を、神霊が自然の表情に表現する記憶や感情を、人々の個なる魂のみならず彼等に再臨協助している霊達の記憶や感情を、外界が死んだ機械的科学認識としてではなく、生きた生命ある霊として、即ち思考し感情し意志する霊として私に働きかける。カフェに腰を下ろすや否や、彼は成功し発展する次なるビジネスとして、あちこちに意識の光線を宛がいながら、あれはどうかこれはどうかと矢継ぎ早に提案してくる。直ぐに飛び付けるようなものではないにしても、なるほどそういう見方もあるかと気付かされた。

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