2014年12月31日水曜日

今日の想い 828 (心情に生きる者となる)

今年も暮れて行く。味わってきた今年の正体が何だったのかを見通そうと、一年を振り返ることで新年への梯子を用意する。時間が余りにも早いので、その流れに逆らえないまま、内的霊的位置を自覚できずに次から次へと外的環境だけが目まぐるしく様変わりしていく。神様の創造理想への意志と、それに呼応する私達人間の責任分担の達成如何によって、摂理が繰り広げられている事実は事実だが、では具体的に私がどう関わってきたのかをどう理解し判断したらいいのだろうか。私達統一食口は復帰原理を知っている。復帰原理を通して人間が神様に立ち返っていく公式があることを知っている。その公式は何を通して行くのかと言うと、言葉でもなく知識でもなく心情を通して行く公式だということを知っている。復帰原理として言葉で受け入れ知識として理解しているけれども、私が摂理を生きている以上、言葉で行くのでもなく知識で行くのでもなく心情を通して摂理を生きる。この心情こそがキイワードであって、心情に立ち心情に生き心情を呈する者こそ摂理の中心的位置で本流を歩む者だ。振り返れば様々な事柄が起こり、様々な感情を味わいながら、その事柄の積み重ねや感情の積み重ねのエキスが歩んできた一年の正体だ。様々な事情環境を私の内的霊的態度によって煮込んでみたりすり潰してみたりと料理しながら、様々に味付けされながら、甘みを加えたり苦味を添えたりされるものをその都度感情で味わいながら、今年一年がどういう人生料理となったかを見ればいい。調味される一つ一つが感情となって表れ、その組み合わせで作り上げた人生料理こそ心情だ。一日には一日の供えるべき心情があり、一年には一年の供えるべき心情があってこそ摂理に生きる統一食口だ。私は私として精誠を込めた心情を差出し、差し出せばそれに応じて天の心情を受け取れる。一年を振り返ってみて、平安であったことを報告し喜ぶのだろうか。神様が平安であられ、御父母様が平安であられるならそれでいいのかも知れない。しかしそうでないなら、平安だったからといって喜ぶ姿勢は、心情を通して生きた一年だったとは言えないだろう。御父母様の御心情を想うならば、平安な私を恨めしく思ってこそ父母と共に生きたい父母の子女になれる。振り返れば痛みを覚える数々の出来事があって、それを味わえたことが本当に感謝であり、より御苦労されてこられた御父母様に、私の痛みなど何でもありませんと言える立場でこそ私は御父母様に顔向けができる。顔を上げて対面すると、お前は何の実績もないのかと責められるに違いないとしても、それでも私の抱えてきた痛み故に御父母様に顔向けができる。

2014年12月30日火曜日

今日の想い 827

TWを早々に首になり、この世のホールセールでマネージャーとして歩んでいる兄弟が近くにいる。仕事の件もあってその会社に彼を訪ねた。妻の通院のために通い慣れたボルチモアへの道を同じように北上しながら、もう五分も走ればボルチモアだという、その手前のイグジットを下りた。以前に一度か二度は訪ねたことはあったが、ナビ頼りなのでほぼ忘れている。今回ももちろんナビ頼りだ。見覚えのある決して上等なウェアハウスだとは言えない建物の中に入っていくと、彼は背を向けて事務机に座っていた。振り向いた顔に老いなのか疲れが垣間見えたけれども、そんな感想は口にはしない。同じことが、いやそれ以上のやつれが私に見えることは確かで藪蛇だ。大雑把なビジネスの状況をお互いに交換すると、彼は上目使いにこんな質問を投げかけた。**さんの歩む力の源泉は何ですか。唐突だったからその質問の意味がよくわからず、逆に尋ねる表情をこちらが見せると、彼は言いたくて仕方がなかったように話し始めた。彼はTWを解雇された日が2月27日であることから始まって、TWで歩んだ期間が120数、TWのボートで歩んだ期間が40数、それらの数字に彼はノア路程とリンクする自分を見ていると言う。解雇された2月27日はノアが方舟から地上に降りた日だ。そのように彼はいつも数字や日にちに関心があって、その観点から歩みへの意義を知り、自分を中心とするみ旨へ向かう力としているようだ。雰囲気から少し変わった兄弟だとは以前から感じていたが、変わっているどころか実に数霊的な兄弟であることがわかった。ビジネスと摂理、生活と信仰をどう関連付けるべきかは信仰路程が実質的である為に必要であるけれども、その辺りを解からずに有耶無耶にしたまま歩んでいるか、はなからビジネスはビジネスと割り切って歩んでいるか、殆どの食口がどちらかだとは思っていた。そうなると仕事に向かう内的霊的な力とはならない。やらされ感に浸ったまま、一日、また一日の繰り返される労働でしかない。それは共産主義の世界だ。み言葉を掲げる共産主義だ。がしかし、こんな近くにそういう意識を持って歩んでいる兄弟がいることに気付かされ、自分の余りにも食口に対する閉ざした内的態度を霊界から指摘されているようで、悔い改めるべきだと思わされた。店でも以前、数人の食口の従業員とそんな観点から意見交換する花咲会を造ったことがある。しかし今は集会を持つこともなくなってしまった。店のマネージャー達も集まってスカイプ会議を月に何度か持っているが、会計の数値のことは話題に上がっても、ビジネスと摂理の深い関係性等については話題に上がらない。ビジネスはビジネスであり、そこからはじき出された利益だけが摂理的に意味があり、内外に払わなければならない日々の労苦の意味など関心事ではないらしい。だからミーティングに出ても誰も本音で話そうとはしないし力が出ない。そして新しいアイデアも出てこない。アイデアは外に外に目を向けてこそあると思っていて、やたらに新情報には喰らいつくけれども、実は私達の歩みの中に新たなアイデアは潜んでいる。新たな価値創造の芽は外にあるのではなく内にある。正直を言うと私は基準が下がっている。今の体制だと苦労してどんなに利益をはじき出すとしても、目新しいがしかし実のない虚の企画に接ぎ込まれて一瞬で消えそうで、その意味でもやる気を削いでしまう。

2014年12月29日月曜日

今日の想い 826

同じ真の父母を慕い侍りながら、同じみ言葉を学びながら、そうであるなら理解が喰い違い方向性が異なることなどあり得ないはずだけれども、現実問題として食い違い異なってきている。そして両者がお互い認め合えずに相克している。統一教会は範囲を広げながら一つになって行くことができるからこそ統一教会であるのに、一つにさせようとする本体の自体内で分裂しようとしている。そしてこの分裂反応を収拾することに手を焼き、時の流れに任せてなるようにしかならないとする諦めさえ見え隠れする、かのように見える。どうして異分子が生じたのか。どのように生じたのか。私達が責任を果たせていないから、そうならざるを得ない摂理としてそうなったのか。普通の私達の既存の意識はそう考えるしそう捉えるだろう。そう捉えて当然だろう。しかしその現実を事実と見るのか、あるいは現実とは異なる現実を越えた事実があるのか、私はどちらに存在基盤を置くのかによっている。私達が御父母様一体圏を理解していないように、統一教会がその都度打ち直されて来た心身一体圏を理解していない。相克している現実は現実だとしても、現実を越える核としての霊的心身一体圏が立っている。それは現実によって揺らぎ左右されるものではなく、現実を越える霊的事実として立っている。そうであるなら現実は現実として対処しながらも、事実からすれば現実は影に過ぎず、事実を地上世界に確立する為の通過すべき路程であったと未来の私は理解するはずだ。あの分裂が統一の事実を地上に落とし込む為に必要であったと未来の私は見通せるはずだ。天地創造過程にあってもその段階段階で相克があり、しかしその相克がなかったならば光をより光たらしめることはできなかった。私達が認識する光は、段階段階で鍛え直されて今ある光を光としている。人間のこの肉体様相も、段階段階で鍛え直されて今ある肉体様相を戴いている。愛が真の愛として鍛え直されなければ、愛は愛でなくなってしまう。一体圏が真の一体圏として鍛え直されなければ、結局は心と体は別物だとして心身一体圏を完成できず、男と女は別物だと夫婦一体圏を完成できない。現実がどれほど悲観的に見えたとしても、それは影でしかなく、現実を越える事実があり、事実は完成完結完了した中心的核が、御父母様一体圏の中に、御父母様一体圏に抱合される天宙一体圏の中に存在している。その霊的事実を霊的感性が備わっていなければ見通せない。私達はこのような時にこそ祈って祈って祈り抜くべきだ。もっとも威力を得るものとして祈りがあると御父様が語られたように、新しい歴史の環境創造の先端に立つ者は祈り抜いた者達だ。光に立つのか、あるいは影となって光を際立たせる立場に留まり、果敢に光に立つ者から位格を落とすのか。反対し、批判し、分派を起こし、彼等が躍起になって叫べば叫ぶほど位格を落とし、それと相対的に本流に走り続ける者は位格をさらに上げて行く。新しい歴史をついに私の歴史が始まったと小躍りする者達は、この混沌の現実の中で新しい歴史の覇者となって登壇してくる。

2014年12月28日日曜日

今日の想い 825

何とか峠を越して落ち着いてきたので、ベッドに横たわる妻をおいてアメリカに帰ってきた。妻は免疫抑制剤のせいで感染症に罹りやすい。罹ると劇症化しやすいのもよくわかっていて、今までもそうだったが、今回は本当に危なかった。しかしそれでもアメリカの大雑把な治療と異なり、丁寧に的確に、さらに日本人の体質に合うように治療してくれて日本の医療サービスは流石だと思った。それもあって血流感染の敗血症も何とか治まったのだが、大病に変わりはなく、動けるには暫くかかりそうだ。しかしながら早く帰国しなければ、任せきりになっている店にしわ寄せがかからないはずがない。誰か面倒見てくれる者はいないかとあれこれ思案してみたが、誰も思い当たる人は見当たらない。それでも兎に角一旦は帰るしかなかった。一人残すのに後ろ髪引かれる思いはあったが、どうにも仕方がなかった。溢れる心配を捨て置いて、貯めてしまった山ほどの仕事をこなすために帰ってきた。店の支払い、従業員への給料、本来ならブックを見ている妻がやっていて、だから私が見ても勝手がわからず、さらに一人残したことへの心配もあって途方に暮れてしまう。わからないままに少しずつ仕事をこなし、散らかり放題のオフィス代わりのリビングを片付け、洗い物も済ませ、ゴミ出しもして、そして強い眠気を覚えた。時差ぼけのせいなのか、それとも看病疲れの為か、心配でまともに眠れなかったのに急に気が遠のいて行って、深い眠りに誘い込まれた。昏々と寝続けた後、おぼろげに周りに目をやると闇に包まれていて、物の輪郭が微かに浮かび上がっていた。外が白ける夜明け頃に眠りについたはずが、とっくに一日を終えたようで、時計は夜中10時を回っていた。一日が完全に飛んで失せてしまい、浦島太郎の気分だった。店がどうなっているのか心配だったけれども、マネージャーに電話するのが憚られた。全てを投げ出したまま寝入ってしまったことへの気の緩みに負債を覚えたからだ。放心状態でソファーに暫く寄りかかり、見慣れた周りの景色を再度確認すると、その体制のままで内面の整理を始めた。今の私の心の状態、失ったものと失おうとしているもの、取り戻すものとしっかり掴んでおくもの、見えないものと敢えて見ようとしないもの、この数週間で起こった大波乱によって、決められた方向に流れていたもの全てが掻き乱されてしまって、その整理にそれ相応の期間が必要で、一日二日で取り戻せるとはとても思えない。まともに動けない妻を迎えに行かないといけないと、その思いがしこりの様に内面に居座っていて、それが片付かないと次のどんな整理も采配も意志できるとは思えなかった。店のことも含めてより公的な意識を持つべきなのに、度量の狭さに愕然としながらも、しかしそれが今の私の現実だった。祝福を受けて、祝福家庭であることへの誇りというより、私の意識は実は選ばれし者としてのこの世的な階級意識とさして変わりはなかった。祝福家庭であることへの階級意識など百害あって一利なしだ。誇りと階級意識とは異なる。誇りは謂わば仰ぎ見る主体に対する対象であることの喜びだが、階級意識は私自身を主体として胸を張る自己満足だ。慕い侍ることのできる主体を与えられているからこそ、誇りが持てるということがこの年になってやっとわかった気がした。誇りではなく自己満足のエリート意識に過ぎなかった。

2014年12月27日土曜日

角の生えた食口がいる

私達は御父母様に対して私達なりのイメージが備わっている。イメージとは本質そのものではなく、そうあって欲しい、そうあって当然だというフィルターを通しているのであって、そのイメージそのものを本質として基準にしてしまうと誤解が生じかねない。イメージを壊される場面において私達なりの間違った判断をくだしてしまう。御父母様一体圏の本質を私達は理解しているだろうか。仲が良ければ一体であり、仲が悪ければ一体圏にはないといえるのだろうか。確かに御父様は御母様に対して公的な場で苦言を呈されたのかも知れない。いや、断罪されたのかも知れない。その場の張りつめた空気、その場にいた誰もが覚えた心苦しい空気は映像からでも察して余りあるが、だから御父母様は御母様故に一体圏にないと決めつけていいのだろうか。決めつけてしまって私の救い、果てには人類の救いはどうなってしまうのだろうか。それで私達は納得し、御父様の言い分に立って御母様に声を荒げることを良しとして、畏れ多くも御母様の悔い改めを迫るのだろうか。御父母様によって生み変えられた私達でありながら、更に言えば御母様を通過して生み変えられた私達でありながら、その御母様を否定するなら、重生した私達の存在などあり得ない。要するに祝福を否定して、私達はただの一介の宗教の信者に成り下がってしまう。であればわざわざ人類の蕩減を背負うほどの苦労を超えてきた意味は一体何だと言うのだろうか。御母様批判に傾く多くの食口は、それ故に重生を否定し、祝福を否定する自己破壊への道を辿っている事実を知らない。霊的無知とは何と恐ろしいことだろう。御父母様一体圏のイメージを壊されるという、それは自らの思い込みでしかなかった御父母様に対するイメージを壊されたという恨みで、はからずも培ってきた私の霊の柱を自らで壊してしまうという愚かにも程がある行為に走っている。母親と子供は一体だ。子供は母親の体からできているので生まれながらに一体だ。だから子供は父親が母親をなじれば心穏やかではいられない。母親が父親をなじるのも心痛いけれども、父親が母親をなじるその時の子の感情はその比ではない。私達は御母様を通過して生まれた存在だ。御母様と私達は一体圏にあるという感覚は、御父様が御母様を責める時に、痛みとして覚えるものから感じ取れる。その感情がないと言う者は、では一体誰が、何が、私を産み落としてくれたと思っているのだろう。御父様から直接に分身した私だとでも思うのだろうか。私は内的に霊的に深く入れば入るほど、御母様の胎の暖かさを覚える。天の御父様だけでなく、天の父母様であることにかつてない安らぎを覚える。御母様は批判の矛先を向ける食口に言及されると、み言葉がわかっていないからだと言われて寂しそうな目をされる。しかし彼等に対して、哀れな想いは抱かれるとしても恨みの感情は抱かれない。御父様が聖和されて、御母様の時代だと言うならそうかも知れない。御父様は女性時代が来ると言われたけれども、女性時代は母の艱難の時代だと言われたように記憶しているが私の勘違いだろうか。御母様を私達が支えずに誰が支えるのだろうか。御母様が悔い改めるなら支えてやるとでも言うのだろうか。あるいは御母様の代わりに誰か御父様の相対圏を用意しようとでも言うのだろうか。無知にも程がある。御父様は、御母様を責められるのを敢えて公的な場で見せながら、御母様一体圏にある私達を奮起させようと思われたのは明らかだ。そうでなければ、わざわざ公的な場で言及される必要は全くない。しかし一方で、御父様は御母様の勝利宣言を公的な場でされている。御父母様一体圏を宣布しておられる。御母様に苦言を呈する者達は、天正宮のあの出来事を御母様への勝利宣言の否定、御父母様一体圏の否定として受け取るのだろうか。妻のいないクリスマスの日、妻を既に霊界に送った兄弟のところに行って食事を共にした。彼はこんな話をしてくれた。山羊はエサを与えれば与えるだけ口にする。子供の頃、飼っている山羊がいくらでもエサを食べるので与え続けてしまい、翌朝死んでしまって親に責められたと言う。そう、山羊は食べなくてもいいのに、いや食べるべきではないのに目の前に差し出されると口にしてしまう。消化できないのに腹に収めて消化不良で命を絶つ。私達も消化できない情報を何でもかんでも受け入れれば内的に消化不良を起こす。み言葉をしっかり訓読して消化器官なり、消化酵素を備えなければならないのに、それを蔑ろにしてあることないこと、いろんな情報を無闇やたらに吸収してしまい、それは甚だ山羊の様相だ。羊が群れを離れて山羊になる。他人事ではない。自分だっていらない情報を山ほど取り込みながら、み旨へ向かえない言い訳を探そうと躍起になっている。

2014年12月24日水曜日

今日の想い 824

霊的見地に立つ者は必ず霊的に導かれるし、外的なものを重要視する者、すなわち外的要因に左右され踊らされる者は霊的なものを見落してしまう。外的に問題が生じればそれを解決しようと内面に於いて戦いが始まる。それは誰もそうで、そうである以上人間として抜きん出ることができる訳でもないし、誰もが想像だにしない創造への混沌に突入できる訳でもない。仕方のない事情から問題が生じた場合、マイナスの位置に落とされている訳で、その時の戦いは元の位置への復帰の蕩減的側面が責任分担的側面よりかなり比重を占めている。人は皆安定を求める。それは本然の人間としての姿勢というより、既存の位置に執着する堕落的な姿勢なのだろうか。私達み言葉に生きる者の姿勢として、敢えて安定をかなぐり捨て、混沌に突入する勇気と覚悟を持たなければ、霊的開拓精神に生きる者とはならないだろう。この世的問題、外的問題に翻弄されるのみであれば、とても霊的に護られているとは言えない。そんな問題を物ともせず、霊的開拓精神に生きてこそ霊界は護らざるを得ないだろう。しかし、しかしだ。そんなことが現実的に可能だろうか。今ある平安を投げ打って、敢えて混沌と不安の中に突入する破壊的人間になれるだろうか。そしてそれが本当に天の願いだろうか。人間は平安を求めて当然だろう。人間が破壊的であればとっくに人類は消滅していただろう。私の事情圏、環境圏に問題が生じた場合、確かに平安な位置からマイナスの位置に落とされている。しかし元の位置への復帰を通り越して、更なる高みへと向かう霊的開拓精神をして平安であった元の位置を超えることができれば、蕩減的側面から責任分担的側面が比重を占めながら天の使命、願いを全うする存在になれる。よって打たれた時こそがより大きな責任を申し受ける時であり、より大きな天の祝福を受ける時だ。打たれる時その期待感をしっかり持って、打たれれば打たれるほど大きな恵みがくると信じて事に対するべきだ。いい時があって悪い時がある。高い時があって低い時がある。全てがうまくいく時があって全くうまくいかない時がある。そんな波を幾度も幾度も超えて行くわけだけれども、あるサイクルで大きな波が来るし、さらに特別な長期的サイクルでとてつもない波が来る。そんな時は私の次元が上がる時、霊的位相が上がる時だ。

2014年12月18日木曜日

今日の想い 823

私は雪男だそうだ。私が帰ると雪が降る。それも半端なく降る。もちろん夏場に帰ればありえない話だが冬に帰れば必ずそうなる。待っていましたとばかりに雪が降る。今回は自分の田舎のみならず日本の至るところで雪が降った。雪は祝福の象徴だと言うが、しかし誰も積雪は好まない。生活をむしばむからだ。生活を投げ置いて、雪積もる状況を甘受してしまえば、祝福の雪としての内的本質を受け取れるかも知れないのに、一寸先の生活に執着し食べられるかどうかの方がより重要だろうし外的にのみ生きようとする意志の方が遥かに強い。雪に包まれて冷たく死んでいくとしても、それでもいいと思えるほどの死を超える内的祝福は、唯物的現代人にとっては無用の賜物だ。私を麓の停留所まで迎えに来た老父は、荒れ狂う吹雪に進路を遮られながら、しかし決して逆らうことなく見通しがつくまで忍耐強く待っている。ホワイトアウトはその名の通り、真っ白な世界に投げ出された状態だ。色気のない真っ白な世界を拒まず忍耐強く受け入れる。私の中の色気である執着をホワイトアウトさせて、一旦全ての欲を消し去ってから新たな願望で色付ければいい。人が自分にない神霊要素、聖霊要素を受け取れる早道は、いかに内面の色や欲を真っ白にホワイトアウトできるかだ。私の内面をホワイトアウトすべく雪が降る。帰るたびに身を清めろと雪が降る。だから傍目から見れば私は雪男だ。暖冬のはずが史上稀に見る寒気を呼び寄せ、日本中を白く覆ってしまった。


2014年12月13日土曜日

今日の想い 822

側から見れば一進一退の状況でも、内的霊的に見れば確実に勝ち取った条件は積み上がっている。その期待感を保持し続け見失ってはならない。その期待感が高まるにつれて、希望が誘われ出て姿を現してくる。そう、期待感があって希望が現れるのであり、先ず希望ありきで期待が高揚してくるのではない。希望がないと言って塞ぎ込むのではなく、私の中に信仰に裏付けられた期待感を膨らませることこそが、能動的創造的、そして主体的な環境主管主としての人間の有り様だ。既に取り決められ枷を嵌められた運命的存在から、希望を見出し理想を求める天地自由人へのトランスフォームが為される。如何に悲観的に受け取りかねない要因であるにしても、信仰者にとってはプラス要因にはなってもマイナス要因にはならない。いや、させないという決意と覚悟が必要だ。それは決して能天気な人間になれと言うのとは違い、現実の厳しさは厳しさで甘受しながら、それでもそれに主管されない肉と心魂を超えた精神的霊的有り様の自分を建てることを意味する。それは霊的に見れば確実に一柱の柱としての霊人体の背骨が太く強くなっている。

2014年12月12日金曜日

今日の想い 821

奇跡。大きな可能性の跡と書いて奇跡。天地創造はまさしく大きな可能性の跡、奇跡の積み重ねだ。奇跡など信じない私達は奇跡の星、地球星に生きている。奇跡の星に生きながら可能性を否定して生きている。現実は対処するそれぞれによって、可能性の現れとなったり可能性の否定の現れとなったりするのだろう。しかし絶対信仰に立つなら、あらゆる現実は可能性の現れに違いない。やもすれば否定と悲観に傾きやすい私達は、神様が大いなる可能性を持たれた創造主であられることを不信している。絶対信仰は否定と悲観に傾く堕落的自己との戦い無くして勝ち取ることはできない。私達は戦いから逃れることは絶対に許されない。それが成約信仰だ。成約聖徒だ。御父様の息子娘であるならば、勝利して勝ち取るまで、戦いから逃れる道などあり得ない。戦いの道こそ創造の道であり私達の宿命的道だ。戦いの道を逃げずに前進して奇跡を現実にする。

2014年12月9日火曜日

今日の想い 820

高熱による意識の混濁と激しい頭痛による意識の締め付け、本人の意志は無視されてこの二つの地獄を交互に味わう。それがどうしてわかるかというと、表情の急激な変化と目から光が失われることでわかる。本人の体は目の前にあっても、霊も心魂も既に地獄の果てに運び去られ目の前にはいない。それでもこの体に声をかけるしかないのでしきりに問い続けるが、連れ戻すほどの力はない。問い続けて心魂と霊が繋がっている僅かの細い糸を切らないようにしないと、諦めたと同時にあの世への強力な引力が彼女を連れ去っていく。身体中見たこともない震えでまるで踊っているかのようだ。地獄の舞があるならこれがそうに違いない。救急で運ばれては来たものの専門の医師が今はいないと言うことで朝の9時まで待てと言われた。ブドウ糖の点滴だけで6時間待たされた。その間彼女は地獄の舞を踊り続けた。祈るしかなかった。祈るというより神頼みするしかなかった。私も震えながら祈り続けた。

今日の想い 819

こんな時頼れるのは結局は自分自身だけだ。どんなに祈り求めようと神様は外から働くのではなく、私の内から先ず働く。内面の中心を見出してそこに尋ねるしかない。その為には先ず落ち着くことであり、最善の道を示して下さるという揺らぐことのない信仰を備えることだ。それも外から降りるものではなく私の決意と判断に最善の道がある。そうなると不安との戦いだ。その信仰条件が土台となって見通しが立つ訳だけれども、それも一足飛びに奇跡的に働くのではなく、上がるのかどうか見えないほどだが、それでも段階的に見通しは立っていく。とにかく不安と孤独の絶頂を超えることが初期段階に於いては試される。そんな試練を何度超えてきたことだろう。終わることのない試練の波を、疲れずにくぐり抜け続けて行くことが人生の現実的側面だ。しかし辿ってきた過去の歩みを振り返れば確実に導かれていることがわかる。が、それは後ろを振り向けばのことであり、前に進もうとすれば荒涼たる闇が広がり信仰の光なしでは一歩だに進めない。

2014年12月3日水曜日

今日の想い 818

妻の健康状態を見定めて、なんとか一時帰国の時期を探って決めたにもかかわらず、14時間飛行はさすがにこたえたようで、着いた時はほうほうのていだった。後悔した。溜息が漏れるのを必死で堪えた。その度にその何倍も妻は気落ちするはずだ。一晩ゆっくり休ませて幾分か持ち直した様子だったが、その明くる日、彼女の実家まで辿り着くと途端に病との戦いが始まった。偏頭痛が激しくなり、飛行機から降りると同時に始まっていた頻尿も酷くなった。杞憂が現実となり恐れていた事態に突入していった。熱が一気に上がったようで強い悪寒を訴え、意識まで混濁してきた。明日の朝には病院に行ってみようかと、休む前に実家の嫁さんに勧められたが、とても朝まで待てる状況ではなかった。2時を回ったところだったけれども遠慮して躊躇する気持ちを跳ね除け、救急車を呼んでもらうよう頼んだ。向こうだと言葉はよくわからないけれども勝手はわかる。日本だとこんな時にどうしたらいいのかはわからないけれども言葉はわかる。敢えて言葉がわかることの方が今は大切だと言い聞かせて出来ることをやるしかないと、そんなことを思いながら同行してくれる嫁さんに促されて救急車に乗り込んだ。